日本刀の研究は、武士制度の発展と共に進歩をしてきました。時代が進むにつれて刀剣研究家や刀剣鑑定士など、刀剣に関する専門家と呼べる人達が現われるようになり、刀剣・刀工の紹介、刀工の系譜や刀剣逸話・刀剣鑑定に関する書物などが作られるようになります。そうした日本刀に関する古書について紐解いていきましょう。
押形
日本刀の古書は、刀工・系譜・寸尺・伝来などあらゆる情報が込められている刀剣書です。
その刀剣書には「押形集」(おしがたしゅう)と言う種類があります。押形とは刀剣を絵図に起こす方法のことで、はじまりは室町時代頃でした。
押形は、もともとは中国から伝来した「拓本」(たくほん:墨で写し取る複写方法)技術の応用であり、日本で独自に発展したのが「刀剣押形」(とうけんおしがた)なのです。
なぜ実物の刀剣があるのに押形にして残そうとしたのかと言うと、記録用というのが理由のひとつではありますが、刀剣の繊細さも理由でした。日本刀は湿気に弱く錆びやすい上に、限界まで薄く伸ばした刃は破損しやすい作り。加えて、戦や火事による焼失や紛失も多かったため、名刀を確実に残すことは非常に困難なことでした。
もし実物の日本刀が消失した場合でも、記録してあれば絵や図で大きさ・形・意匠など正確な姿を後世に伝えることができます。そのため日本刀の古書には、刀工・系譜・寸尺・伝来などに加えて、押形が収録されていることが多いのです。印刷機もパソコンもない時代にすべて手で書かれた本、そこには著者の刀剣への並々ならぬ思いも込めれらていると言えます。では、各時代の刀剣の古書を見ていきましょう。
観智院本銘尽(正和銘尽)
(国立国会図書館ウェブサイトより)
「正和銘尽」(しょうわめいづくし)は、日本に現存する最古の刀剣書です。題名の「正和」は、成立した鎌倉時代末期の1312~1316年(正和年間)の元号から取っています。
内容は、相州伝(そうしゅうでん)を確立した鎌倉鍛冶の「正宗」(まさむね)や弟子の「貞宗」(さだむね)などの居住地・時代・家系図・経歴・代表作、そして刀の特徴を記載。
原本はすでにありませんが、1423年(応永30年)に書き写された写本が「東寺」(正式名称は[教王護国寺]:京都府京都市南区)の塔頭寺院「観智院」(かんちいん)に伝来しています。
観智院が保管していたことから正和銘尽は「観智院本銘尽」(かんちいんほんめいづくし)とも呼ばれます。
長く観智院で保管されていましたが、江戸時代末期の幕末頃に観智院の僧正によって愛刀家「津田葛根」(つだくずね)に贈られました。そして1829年(文政12年)に、小浜藩の国学者「伴信友」(ばんのぶとも)に貸して書き写しをさせています。
明治時代になった1908年(明治41年)に、津田家は所持していた観智院本銘尽を売却することになり、買い取った「松平頼平」(まつだいらよりひら)子爵が所蔵。さらにその2年後に松平頼平の蔵書が売却となり、他の蔵書と共に観智院本銘尽は「帝国図書館」(現在の[国立国会図書館])が所蔵することになりました。1939年(昭和14年)に、愛刀家で宮内省(現在の宮内庁)官僚の「三矢宮松」(みつやみやまつ)により、解説付きで書店「便利堂」より刊行。現在も観智院本銘尽は、国立国会図書館(東京都千代田区)にて重要文化財として保管されています。
正和銘尽は、国立国会図書館にある写本の観智院本銘尽、三矢宮松の刊行した本があり、どちらも国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧が可能です。伴信友が書き写した写本については、のちに水戸藩9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)が所蔵しましたが、現在は行方が分からなくなっています。
往昔抄
(国立国会図書館ウェブサイトより)
「往昔抄」(おうせきしょう)は、美濃国(現在の岐阜県)の守護である土岐家の家臣「斎藤利安」(さいとうとしやす)によって作られた押形集です。約50年に亘り集められた押形は、1516年(永正13年)に斎藤利安の子「長井利匡」(ながいとしまさ)によって本にまとめられ「往昔抄」と名付けられました。
刀の茎(なかご)を写した物が中心で、総計840図を記載。東北・京都・北陸・備前・備中・中国・九州の7集団に区分され、室町時代中期頃までの刀が収録されています。
しかし往昔抄は、翌年に起きた土岐家の家督争いにより一時紛失。そのあと、1519年(永正16年)に長井利匡と親交のあった「神戸直滋」が発見し、長井利匡のもとへと戻ってきます。神戸直滋が往昔抄を写したいと言うので、長井利匡は見付けてくれた礼に写本することを許可しました。
現在、重要美術品に認定されている往昔抄は、このときの写本ではないかと言われています。
豊臣秀吉
「光徳刀絵図」(こうとくかたなえず)とは、「本阿弥光徳」(ほんあみこうとく)が描いた刀の絵図です。もともと本阿弥家は、刀の鑑定や研磨に優れた一族で室町幕府初代将軍「足利尊氏」(あしかがたかうじ)に付き従い上洛。本阿弥家の初代「妙本」(みょうほん)は、室町幕府の刀剣奉行として務めていました。
その9代目当主である本阿弥光徳は1596年(慶長元年)に「豊臣秀吉」に召し抱えられ「刀剣極所」(とうけんきわめどころ)に任命されます。刀剣類は、贈答や褒美の品として用いられることが多く、その真贋(しんがん:本物と偽物)を極める役目として本阿弥光徳は豊臣秀吉に重宝されました。その際の鑑定書として発行されるようになったのが「折紙」(おりがみ:刀剣の鑑定書)のはじまりだとされているのです。
前述した光徳刀絵図は、別名「太閤御物刀絵図」(たいこうぎょぶつかたなえず)とも呼ばれ、豊臣秀吉が蒐集(しゅうしゅう)した名刀を絵図にした刀剣書です。光徳刀絵図は、押形ではなく本阿弥光徳が絵に描いて写し取っていることから「絵図」とされてます。仕上がった光徳刀絵図は、1588年(天正16年)に、豊臣秀吉の家臣「石田三成」(いしだみつなり)に進上した「石田本」が最初で、のちに蜂須賀家(はちすかけ)へと伝来。石田本は、72振が収録され「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)による短刀「薬研藤四郎」(やげんとうしろう)からはじまります。
そして1594年(文禄3年)に、本阿弥光徳は「毛利輝元」(もうりてるもと)の求めに応じて石田本を書き写した「毛利本」を進上。石田本と比べ65振の収録とやや少なくなりますが大和国(現在の奈良県)・備前国(現在の岡山県東南部)・相模国(現在の神奈川県)・越中国(現在の富山県)・九州などを順に並べ、諸国名工の代表作を絵図にしているのです。
現在、毛利本は重要文化財にも指定され毛利家の史料保存・調査研究を行う公益財団法人「毛利報公会」が所蔵。さらにこの毛利本を原本として「埋忠寿斎」(うめただじゅさい)が書き写した「埋忠本」があります。埋忠本は、個人所蔵ですが重要文化財に指定されている写本です。
さらに1595年(文禄4年)の奥書となっている大友家に伝わる「大友本」は40振を収録。現在は重要文化財に指定され「石川県立美術館」(石川県金沢市)が所蔵しています。最後に1600年(慶長5年)の奥書である「中村本」は、江戸時代末期の刀剣研究家「中村覚太夫」(なかむらかくだゆう)の蔵書で、他の本にはなかった刀身(とうしん)や刃長の寸尺が記載されているのが特徴。中村本は、のちに愛刀家の三矢宮松が所有しました。
本阿弥光徳刀絵図は最初に書かれた石田本を筆頭に、毛利本・埋忠本・大友本・中村本5冊の書物となっています。それぞれ収録されている刀の数や種類に違いはありますが、大部分は豊臣秀吉の手を経た品です。
「埋忠銘鑑」(うめただめいかん)を作った埋忠寿斎(本名は[埋忠重長])は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した金工家。この埋忠家は、昔から天皇や関白、足利将軍家に仕えた一族で、刀の鍔(つば)や小柄(こづか)、目貫(めぬき)などの刀装具(とうそうぐ)を制作。また、平安時代に活躍し「三日月宗近」(みかづきむねちか)などを作刀した刀工「宗近」(むねちか)の末裔だとも称していました。
埋忠寿斎の伯父で埋忠家25代当主の「埋忠明寿」(うめただみょうじゅ)は、「本能寺の変」のあと、豊臣秀吉に仕えるようになり知行を与えられます。そして豊臣家をはじめ、黒田家、鍋島家、藤堂家など諸大名らの金工注文を請け負うようになりました。時代は流れ江戸時代となると埋忠家は徳川家に仕えるようになり、埋忠寿斎は27代目当主になります。
埋忠銘鑑
(国立国会図書館ウェブサイトより)
その1冊を、江戸時代末期の役人で「信家鍔集」(のぶいえつばしゅう)の著者でもある中村覚太夫も写本を有していました。中村覚太夫の所有していた写本は「刀脇指之覚」と題されていたのですが、それを中村覚太夫から借り受けた愛刀家が「埋忠銘鑑」と題を改め、まちまちに掲載されていた刀剣を国別に整理して出版。1828年(文政11年)のことです。さらに1917年(大正6年)に、日本刀の保護・保存・研究を行う機関「中央刀剣会」が再出版した書物が、今日知られている埋忠銘鑑となります。
継平押形
(国立国会図書館ウェブサイトより)
「継平押形」(つぐひらおしがた)は、江戸時代の刀工「継平」の2代目・近江守継平の手による押形集です。近江守継平は、江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)に徳川家の所有する刀剣を見せてほしいと願い出でます。そしてさらに、この刀剣類の押形を取りたいと願い出ると、こちらも許可をもらうことができました。
内容は、全89振分の刃と刃文(はもん)を写し、寸尺・折紙枚数・献上者などを注記しています。それらを10巻の巻物にして2部作成し、1部を徳川吉宗に献上。1717年(享保2年)に、近江守継平は徳川吉宗から褒美として時服(じふく)3枚を賜っています。継平押形は、のちの1928年(昭和3年)に、「羽沢文庫」より複製本が出版されました。
「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)は、「本阿弥光忠」(ほんあみこうちゅう)が中心となり8代将軍・徳川吉宗の命で編纂(へんさん)した押形による名刀帳です。本阿弥光忠は、諸大名らが所有している刀剣類を調査し、名刀の出自や伝来を格付けしました。そして、1719年(享保4年)に名刀を収録して徳川吉宗に献上。「享保」名物帳となっていますが、元号を付けて呼ぶようになったのは明治時代になってからで、当時は「名物鑑」や「古刀名物帳」と呼ばれていました。全部で上巻・中巻・下巻・追記の4巻からなり、最初は短刀「平野藤四郎」(ひらのとうしろう)からはじまります。
享保名物帳は、徳川吉宗に提出した下書きの原本を「享保書上げ」と言います。それを整理してまとめた書物を徳川吉宗に献上。同じ本が2部あることから、享保書上げを「副本」とし、献上した方を「正本」としています。
徳川吉宗
享保名物帳は、徳川吉宗の命で集めた名刀帳ですが、もとは本阿弥家が鑑定して押形として残されていた刀剣台帳としての側面もあります。
また徳川家は、大名家が所有する名物刀剣を召し上げることもあったため、それを恐れた大名達は名刀を秘匿することもありました。
そのため、享保名物帳には記載されていない名刀も存在します。例えば上杉家の宝刀「大般若長光」(だいはんにゃながみつ)。他にも尾張徳川家に伝来した「後藤藤四郎」(ごとうとうしろう)なども、徳川宗家に召し上げられそうになりましたが、未然に防いでいます。そうして大名家に秘匿された名刀のことを「御家名物」(おいえめいぶつ)と言いました。
土屋押形
(国立国会図書館ウェブサイトより)
「土屋押形」(つちやおしがた)は、江戸時代後期の刀剣研究家「土屋温直」(つちやはるなお)が著した押形集です。土屋温直は、1,500石を持つ御徒士頭(おかちがしら:江戸幕府に属する下級武士)でした。この土屋押形は、「新刀弁惑録」の著者「荒木一滴斎」の志を継いで作成した押形集でもあるのです。
荒木一滴斎は、土屋温直の父「土屋廉直」(つちややすなお)と親交があり、土屋廉直は新刀弁惑録にも序文を寄せるほど近しい間。そうしたなかの1786年(天明6年)に、荒木一滴斎が押形集を作ろうと集めていた押形が、常陸国土浦(現在の茨城県土浦市)の水害ですべて流されてしまいました。このことをきっかけに土屋温直は押形収集に臨み、完成したのが後世に言う土屋押形です。
土屋押形は、刃の中心から鋒/切先(きっさき)の刃文を描いた絵図であり、全8巻あります。1926年(大正15年/昭和元年)には中央刀剣会が再発行し、全8巻を上・中・下巻の3冊にまとめました。