日本刀とは、日本独自の製法で作られた反りがある片刃の刀剣のことを言います。日本刀がはじめて現われたのは平安時代の頃。それまでは上古刀(じょうことう)と呼ばれる、大陸から伝来した両刃(もろは)の剣や直刀(ちょくとう)が主流で、海外の刀剣との大きな違いはありませんでした。日本刀発祥の歴史とそのルーツについて紹介します。
日本ではじめて刀と呼ばれる刃物が出現したのは、紀元前にさかのぼります。弥生時代に日本に鉄器や青銅器が中国大陸から伝わり、3世紀には鉄を加工する鍛治技術も伝来しました。
古墳時代以前には日本でも刀が作刀されるようになり、古墳時代に入ってからは製鉄技術も日本に伝来。この製鉄技術は、日本刀を作刀する上で最重要工程となる「たたら製鉄」の基礎となります。
この頃の刀の姿は両刃で反りがなく、柄も刃とひと続きの鉄製で、刃の断面は単純な三角形をした物。この時代の刀で特に有名なのが、三種の神器のひとつである「草薙剣」(くさなぎのつるぎ:天叢雲剣とも)です。草薙剣は712年(和銅5年)に編纂された「古事記」にはじめて記載された神剣で、現在は「熱田神宮」(愛知県名古屋市)の御神体として祀られています。
一方、4世紀頃に朝鮮半島の百済から伝来した「七支刀」(しちしとう)は、両刃(もろは)の刀身(とうしん)の左右から、6本の枝刃が互い違いに分岐した特徴的な姿をしたもの。このため、七支刀は武器としてではなく、儀礼に用いられたと考えられているのです。現在は「石上神宮」(奈良県天理市)の神体として祀られています。
天叢雲剣
このように、古墳時代の刀は武具ではなく祭神具としての意味合いが強く、儀礼に用いられたり、天皇家や豪族などの古墳に副葬品として埋葬されたりしたものがほとんどでした。
古事記
720年(養老4年)に成立した「日本書紀」では、神代の最も優れた名工として「天目一箇神」(あめのまひとつのかみ)という神様の名前が挙げられています。
この天目一箇神は鍛治や金工を司る神様で、国造りの神である「大物主神」(おおものぬしのかみ)を祀る際には祭具を制作し、皇祖神である「天照大神」(あまてらすおおみかみ)に仕えました。
天目一箇神は代々皇室に仕えて古来日本の鍛治法について伝え、子孫は倭鍛治(やまとかぬち:鍛造技術を持った技術者の集団、金工師のこと)として朝廷に仕官したと記載されています。神代から隣国である朝鮮半島との交流があったことから、日本の神話上では天目一箇神から受け継いだ日本の鍛治技術に、大陸の技術を取り込んだものが、現在の日本刀の由来となったとされているのです。
大陸から日本に刀が伝来した古墳時代から、奈良時代に至るまでの上古時代の刀を「上古刀」(じょうことう)と呼びます。上古刀は両刃もしくは片刃の直刀(ちょくとう)で、刺突に優れたもの。飛鳥時代になると、刀に平造り(ひらづくり)や切刃造り(きりはづくり)、刀身に稜線を持つ鎬造り(しのぎづくり)などの造込み(つくりこみ)が見られるようになります。
これらの造込みは日本刀の原型となり、美しい刃文(はもん)や地鉄(じがね)などが確認できる、日本刀としての特徴を持つようになりました。
飛鳥時代に戦いの規模が大きくなると刀の需要が高まり、併せて性能の向上も図られるようになります。刺突に優れた従来の刀から、切刃造りなどの造込みが行われた、頑強さを意識した刀が作られるようになったのです。飛鳥時代の代表的な作品に、「聖徳太子」が佩用していたとされる「七星剣」(しちせいけん)と「丙子椒林剣」(へいししょうりんけん)があります。
この2振は、現存する日本最古の飛鳥時代の上古刀として、聖徳太子ゆかりの寺院である「四天王寺」(大阪府大阪市)に所蔵されています。丙子椒林剣の細身のすっきりとした刀身には、細い直刃(すぐは)の刃文が鋒/切先(きっさき)に向かって先細るように入れられました。一方七星剣には、刀身の鎬地(しのぎじ)に2筋の「樋」(ひ:重量とバランスを取るための溝)が掻かれ、やや内側に反るなどの特徴があり、飛鳥時代には現在の日本刀に近しい姿が見られるようになったことが分かります。
平安時代に入ると、現在の日本刀のルーツとも呼べる刀が現われました。平安時代初期に「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)によって蝦夷征討(えぞせいばつ)が行われたことで、蝦夷が用いた、柄が湾曲した刀剣「蕨手刀」(わらびてとう)の形状を模した刀が作刀されるようになったのです。
蕨手刀は、大和政権で用いられていた直刀よりも斬ることに特化しており、馬上での戦闘に有利であると考えられました。平安時代の中頃には、少しずつ形状が変化し、「日本刀のルーツ」とされる、柄に近い刀身が湾曲した形の「毛抜形太刀」(けぬきがたたち)が登場。毛抜形太刀は急速に普及し、天皇親衛隊である「衛府官人」の正式な武具として採用されるようになりました。
平安時代中期以降、武士達が登場したことにより、より実践向きの刀が求められるようになります。当時の武士の戦法は騎馬戦が主流。そのため、馬上で素早く抜刀することができる刀身に反りのついた刀が作刀されるようになったのです。
なお、反りのついた湾刀は刺突が目的の直刀とは違い、力で圧し切ることなく引いて斬ることができるのが特徴。反りがあることで、相手の刃を受けるときの防御などでも扱いやすく、流れるような動作が可能となったのです。これ以降の刀を日本刀と呼び、またそれまで呼ばれていた刀の呼称も「大刀」から「太刀」へと変化しました。現在呼ばれる「日本刀」は、公家社会から武家社会へと変化する過渡期に、時代の要請によって成立したのです。
平安時代の中期に作刀された有名な日本刀が、山城国(現在の京都府)の「天国」(あまくに)が作刀したとされる「小烏丸」(こがらすまる)。天国は「日本刀の祖」と呼ばれる大和国(現在の奈良県)の刀工です。小烏丸は、刺突を目的とした直刀から、斬撃を目的とした湾刀への過渡期に作刀された日本刀。腰反りが強く入っているものの、鋒/切先が両刃となった「鋒/切先両刃造」(きっさきもろはづくり)という、刺突と斬撃の双方が可能となる、特徴的な造込みがされました。
平安時代後期になると、平氏と源氏をはじめとする武家勢力が台頭し、大きな合戦が起こるようになったことで日本刀はさらなる発展を遂げます。日本刀の需要が高まったことで、作刀に適した地域に刀工達が工房を構えるようになり、日本刀には土地ごとの作風が見られるようになりました。「五箇伝」(ごかでん)と呼ばれる有名な日本刀の流派が出現し、各地の刀工から優れた伝法が代々伝えられていったのです。
その後も日本刀は刃文や地鉄などの技術や、長さや重さ、反りなどの形状が、刀工達の腕前や作風、戦法の変化などによって変容していきました。時代の要請に応えてきた日本刀は、長い間武士の魂として武具としての意味だけでなく精神的な意味合いを持ち、現在まで受け継がれてきたのです。
日本刀と言う呼称は、元々、独自の製法や形状を持つ日本の刀を、海外の刀と区別する際に用いられた呼称であると言われています。古来より日本刀は、日本国内において、「大刀」や「太刀」、「刀」などの名称で呼び表わされていました。
日本において「日本刀」という呼称が使われ始めたのは、長い間閉じていた国を開き、海外の武具が流入してくるようになった江戸時代末期からのこと。日本刀の名の由来は、北宋の詩人である「欧陽脩」(おうようしゅう)が書いたとされる「日本刀歌」に見られます。
日本刀歌は、中国で「宝刀」と呼ばれていた日本の刀の美しさについて詠ったもの。大陸から伝来し、独自の発展を遂げた日本の刀が、すでに平安時代後期から鎌倉時代前期にかけて、輸出品として海外に認められていたことが分かります。