日本には、神仏に対する感謝や崇敬の気持ちを込めて、神社や寺にお供え物を奉納する文化があります。これは古代から続く文化であり奉納する物も様々。収穫したばかりの米や作りたての酒、そして祭の山車や神楽舞なども奉納の一種です。日本刀が奉納されるのもこうした理由からで、人々にとって価値のある物を神仏に捧げることが感謝の意であり、今後も幸運をもたらして貰うための祈りでもありました。神社や寺のご紹介と、奉納された日本刀について見ていきましょう。
北野天満宮
「北野天満宮」(京都府京都市上京区)の宝物館には、源氏の宝刀として伝わる名刀「鬼切安綱」(おにきりやすつな)が所蔵されています。
この北野天満宮は、平安時代の官吏「菅原道真」(すがわらのみちざね)を祀っており、「天神さん」や「北野さん」の名前で親しまれている神社です。
そして「太宰府天満宮」(福岡県太宰府市)など、全国各地にある天満宮の総本社となっています。菅原道真は学者でもあったことから「学問の神様」とも呼ばれ、受験の季節は参拝者で大賑わいです。
代々学者の家系に生まれた菅原道真は、自身も学者でありながら右大臣にまで昇進。しかしそれを妬んだ左大臣「藤原時平」(ふじわらのときひら)の陰謀により大宰府へと左遷されてしまいます。当時、太宰府と言えば京の都から離れた場所であったことから、都の官吏達にとって大宰府行きは貴族社会からはじかれた陸の孤島でもありました。
そして菅原道真は、左遷された2年後に大宰府で生涯を終えます。以降、都の内裏への落雷や、藤原一族の不審死が続いたため、菅原道真の祟りと怖れられるようになりました。947年(天暦元年)に、菅原道真の霊を祀るため北野の地に社殿が造営されます。さらに987年(永延元年)には、当時の天皇が正式に神号を北野天満宮と認めたことが今日のはじまりです。
また菅原道真は、漢詩や和歌を得意としました。なかでも「梅」を好んだこともあり、和歌の題材に梅を詠んだ歌を多く残しているのです。このことから北野天満宮には、20,000坪の敷地を持つ「梅苑」に約1,500本の梅の木が植えられ、毎年春にきれいな花を咲かせてくれます。
前述した鬼切安綱は、源氏の棟梁が代々受け継いできた太刀(たち)で、持つ人物、時代により号が変わった刀でもあるのです。「髭切」(ひげきり)・「鬼丸」(おにまる)・「獅子の子」・「友切」など様々。この鬼切安綱を作らせたのは、平安時代中期の武士「源満仲」(みなもとのみつなか)で、のちに息子「源頼光」(みなもとのよりみつ)のもとに渡ります。そして源頼光は、鬼切安綱を配下の「渡辺綱」(わたなべのつな)に貸し与えることに。鬼切安綱を手にした渡辺綱は、京の都を騒がす鬼退治に向かい、鬼の「茨木童子」(いばらきどうじ)の腕を切り落としたと伝わるのです。このことから号に「鬼切」と付けられたと言います。そして多くの人々の手を経て、源氏とつながりのある出羽国(現在の山形県・秋田県)の最上家が所有し、こののち北野天満宮に奉納しました。
本刀を作ったのは、平安時代初期に活躍した伯耆国(現在の鳥取県中西部)の刀工「安綱」(やすつな)です。安綱は、「天下五剣」(てんがごけん)のひとつにも数えられている「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)を作った刀工でもあります。この鬼切安綱は「安綱」と二字銘が刻まれていたと言われていますが、「國綱」(くにつな)と改竄(かいざん)されているのです。改竄の理由については分かってはいませんが、奉納するまで所有していた最上家によって銘(めい)を変えられたのではないかと伝わっています。
厳島神社
その起源は、593年(推古元年)に当地を治める豪族「佐伯鞍職」(さえきむらもと)が神託を受けたとして、勅許(天皇の許可)を得て「市杵島姫命」(いちきしまひめのみこと:日本神話に登場する水の女神)を祀る社殿を造営したことがはじまりです。
1146年(久安2年)に、平清盛が安芸守(あきのかみ:現在の広島県西部辺りを任された朝廷からの行政官)に任じられると、前述した通り厳島神社のある宮島などを大変気に入ります。そして、1168年(仁安3年)に平清盛の援助を得て、寝殿造の様式を取り入れた社殿に修造。平清盛は官位が上がるにつれ厳島神社も栄えていき、より平家一門との結び付きは強くなります。1174年(承安4年)に「後白河法皇」(ごしらかわほうおう)の御幸があり、1180年(治承4年)には「高倉上皇」が御幸し、他にも多くの皇族や貴族が参詣しました。
平清盛に盛り立てられた厳島神社の宝物館には、平清盛や平家一門による自筆の「平家納経」や絵画・書・甲冑(鎧兜)・刀剣類などが保管されています。平家が滅んだあと時代が移り室町時代には室町幕府初代将軍「足利尊氏」(あしかがたかうじ)や3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)、戦国時代には中国地方を治めた大内家、毛利家なども厳島神社を信仰し、そして庇護しました。現在、厳島神社は、宮城県の「松島」、京都府の「天橋立」(あまのはしだて)と並び日本三景として知られており、さらに1996年(平成8年)に世界文化遺産に登録され、国内外からの観光客に人気の場所です。
厳島神社宝物館には、平清盛の三男「平宗盛」(たいらのむねもり)が、平家一門の繁栄を祈念して奉納したと伝わる太刀「銘 友成作」が保管されています。作刀したのは、平安時代中期から後期に活躍した備前国(現在の岡山県東南部)の刀工「友成」(ともなり)と言う人物で、「古備前派」(こびぜんは)の開祖。古備前派は、備前国に栄えた流派のはじまりで、「福岡一文字派」(ふくおかいちもんじは)や「長船派」(おさふねは)の源流であるとされています。
古備前派による作刀は、優美で格調高い姿のため、武士や貴族などから重宝され、贈答用や奉納刀として人気のある刀でした。そして、同時代に活躍した刀工「正恒」(まさつね)と並んで古備前を代表する名工であり、のちに「友成派」と「正恒派」と派閥が分かれていきます。本刀は、1952年(昭和27年)に国宝に指定され、現在も厳島神社宝物庫に所蔵されている名刀です。
「日光二荒山神社」(にっこうふたらさんじんじゃ)は、栃木県日光市にある神社です。正式名称は「二荒山神社」ですが、宇都宮市にも同じ名前の神社があるため区別のため「日光」と地名を付けて称します。この日光二荒山神社に奉納されているのが、「祢々切丸」(ねねきりまる)と呼ばれる太刀です。
日光二荒山神社
境内は、女峰山登山口にある「本社」、男体山登山口の「中宮祠」、男体山山頂の「奥宮」の3ヵ所。境内近辺には、「華厳滝」や「中禅寺湖」、「いろは坂」などがあり、現在は人気の観光地のひとつとなっています。江戸時代初期には、「徳川家康」を祀る「日光東照宮」(栃木県日光市)が創建されると、日光二荒山神社も江戸幕府のみならず朝廷や諸大名、さらに民衆からも熱い支持を受けるようになりました。
祢々切丸は、日光二荒山神社の護神刀であり、妖怪退治の伝説を持つ刀です。祢々切丸の号は、日光山中の「ねねが沢」に住み着いた妖怪「祢々」を、刀自ら鞘を抜け出して祢々を切り付け退治したと伝わることに由来します。またこの祢々の正体については、日光付近の方言の「河童」であるという説や、「ネーネー」と鳴く虫が化けたのだとも言われているのです。
祢々切丸は南北朝時代に作られた大太刀で、作者不明とされています。一説によれば、天下五剣のひとつ「三日月宗近」(みかづきむねちか)を作った「宗近」(むねちか)ではないかと推測されていますが、特定には至っていません。刃長は7尺1寸5分(約216.7cm)と現存する刀剣類のなかでも極めて長い太刀に分類されます。また祢々切丸は、日光二荒山神社で毎年4月13~17日に行われる「弥生祭」で、男体山で捕れた牡鹿の皮の上に飾り儀式をするのが習わし。1,200年以上続く伝統的な神事で、栃木県の県指定無形文化財にも指定されています。
祢々切丸
「四天王寺」(大阪府大阪市天王寺区)は、日本仏教の祖である「聖徳太子」によって開かれた寺院です。創建については、「日本書紀」によれば蘇我氏と物部氏による宗教対立の折、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が「戦に勝利したら寺院を建てる」と誓願したことによるとあります。そして見事勝利すると、誓いを果たすために四天王寺は建立されました。
「丙子椒林剣」(へいししょうりんけん)は、聖徳太子の佩刀(はいとう)した四天王寺に伝わる剣です。切刃造り(きりはづくり)で反りのない直刀(ちょくとう)の姿をしており、鎬造り(しのぎづくり)で反りのある日本刀が作られるようになる以前の形式。
名称の由来は、腰元の刃長に「丙子椒林」と金象嵌銘(きんぞうがんめい)されていることによります。この解釈についても、古くは「丙毛槐林」とされ「丙毛」は「蘇我馬子」、「槐林」は「大臣」であると言われていました。
しかし、江戸時代の朱子学者「新井白石」(あらいはくせき)が、「丙子」は作られた年の干支で、「椒林」は作者ではないかと推察したことで、現在ではこのように解釈するのが通説です。同じく四天王寺には、聖徳太子の佩刀と伝わる剣「七星剣」がありますが、どちらも飛鳥時代に作られた上古刀(じょうことう)としては最高の出来であると言われています。
久能山東照宮
「久能山東照宮」(静岡県静岡市)は、徳川家康が埋葬されている社です。創建は7世紀の「推古天皇」(すいこてんのう)の時代まで遡り、同地を治めていた「久能忠仁」が「久能寺」を建立し、観音菩薩像を安置したことがはじまりです。
久能寺の縁起(社寺の起源や由来)によると、久能寺は平安時代の仏教隆昌と共に多くの僧坊が建てられ、多くの名僧が往来したと言います。さらに平安時代から鎌倉時代初期にかけて、360坊、1,500人の衆徒をもつ大寺院となっていました。
江戸時代になる頃には、「駿府城」(現在の静岡県静岡市)に徳川家康が隠居するようになります。そして家臣に対し、自分の死後について「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎてのち、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ、関八州の鎮守になろう」と遺言しました。徳川家康の息子で2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)は、この遺言に従い、遺体を久能山に埋葬し同地に久能山東照宮が造営されたのです。
「ソハヤノツルキ」は、鎌倉時代の刀工「三池典太光世」(みいけてんたみつよ)作と言われています。本刀は、平安時代に日本ではじめて征夷大将軍に任命された「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)が所持していたと伝説に残る「ソハヤノツルキ」の写し(名刀などを模造すること)です。
作風は、板目肌(いためはだ)やや流れ、刃文(はもん)は直刃(すぐは)で帽子は小丸。佩表(はきおもて:太刀の刃を下にして腰に帯びたとき、表側になる面)に「妙純伝持 ハヤノツルキ」とあり、佩裏(はきうら)には「ウツスナリ」と銘が刻まれています。徳川家康が愛用し常に身に付けたとされる太刀で、亡くなる直前まで側近くに置いていたことから、死後は久能山東照宮の宝庫に納められました。