「日本刀」とは、かつて武器として使用されていた刀剣類のこと。漫画や映画などのフィクション作品では、「最強武器」のひとつとして挙げられるほど人気が高いことで知られています。最強の武器というイメージは、細身であやしい光を放つ見た目から来ていますが、実在する日本刀も、実はその切れ味の良さによって「格付け」がされていました。「最強の日本刀」を作刀した「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)と呼ばれる刀工と共に、抜群の切れ味を誇る最強の日本刀に関する伝説、逸話をご紹介します。
試し切り
現代の日本刀は、美術品としてその製造や所持が認められていますが、かつては武器として使用されていたため、性能を測る際は「試し切り」をすることで優れた日本刀を選定しました。
江戸時代の宣教師である「ルイス・フロイス」の報告書には、「日本刀の試し切りは、必ず人体を用いて行っていた」と書かれています。
試し切りを行ったのは、「御様御用」(おためしごよう:刀剣の試し切りを行う役人)を務めていた「山田浅右衛門」(やまだあさえもん)。山田浅右衛門は、刀剣の試し切りと死刑の執行を担った人物で、試し切りの名手として知られていました。
日本刀の切れ味の良さを示す基準は、人体のどの部位をどれだけ斬ることができたか。そして、これをまとめたのが「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)です。懐宝剣尺とは、肥前国唐津藩(現在の佐賀県唐津市)の藩士「柘植平助方理」(つげへいすけまさよし)が山田浅右衛門などの協力を得て著した、刀剣の切れ味を比べた格付け本のこと。業物表(切れ味によってランク付けされた刀工の一覧)をはじめ、試し切りの仕方や年代表、金工銘鑑、外装などの情報が書かれており、初版から人気が高かったため5版まで刊行されました。
懐宝剣尺における位列は、「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)、「大業物」(おおわざもの)、「良業物」(よきわざもの)、「業物」(わざもの)の4段階。
最上大業物が最も切れ味に優れており、以下の15名が選定されています。
最上大業物 15工 |
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長船秀光(おさふねひでみつ) |
長船兼光(おさふねかねみつ) |
長船元重(おさふねもとしげ) |
三原正家(初代 三原正家)(みはらまさいえ) |
兼元(初代 兼元)(かねもと) |
孫六兼元(2代目 兼元)(まごろくかねもと) |
和泉守兼定(2代目 兼定)(いずみのかみかねさだ) |
長曽祢興里(初代 虎徹)(ながそねおきさと) |
多々良長幸(たたらながゆき) |
肥前忠吉(初代 肥前忠吉)(ひぜんただよし) |
陸奥守忠吉(3代目 肥前忠吉)(むつのかみただよし) |
ソボロ助広(初代 助広)(そぼろすけひろ) |
仙台国包 (初代 国包)(せんだいくにかね) |
長曽祢興正(2代目 虎徹)(ながそねおきまさ) |
三善長道(初代 長道)(みよしながみち) |
孫六兼元(清関兼元)は、室町時代後期に美濃国(現在の岐阜県南部)で活躍した刀工。銘の「孫六」(まごろく)は、清関兼元が刀匠「三阿弥兼則」(さんあみかねのり)の孫で、父の名が「六郎左衛門」(ろくろうざえもん)だったことが由来と言われています。美濃国の関や赤坂などで多くの刀剣を作刀したため、関鍛冶は「備前国長船」と並び、刀剣の二大産地となりました。
孫六兼元(2代)は、室町時代後期に美濃国で活躍した刀工。美濃国の代表刀工として知られる初代「兼定」(かねさだ)のもとで修業をしたのち、初代兼定の息子であり「之定」(のさだ)の通称で知られる2代「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)と兄弟の契りを交わしたと言われています。
長曾祢興里(初代虎徹)は、江戸時代前期に江戸で活躍した刀工。切れ味に優れた刀を多く作刀したため、抜群の知名度を誇った刀工として知られていますが、もともとは甲冑(鎧兜)を制作する職人「甲冑師」でした。太平の世となったことで甲冑(鎧兜)の需要が低下したため、甲冑師から刀鍛冶へ転向し、成功を収めます。
津田助広(ソボロ助広)は、江戸時代初期に摂津国で活躍した刀工。津田助広は、「濤瀾刃/濤瀾乱刃」(とうらんば/とうらんみだれば)と呼ばれる、平和な時代を象徴する華麗な刃文を創始した人物です。江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)の父である水戸藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の供回りのひとりが津田助広の刀を所有しており、大名行列において無礼を働いた町民を十数名、津田助広の刀で斬り捨てた際、その切れ味の良さに驚いたと言われています。
長曾祢興正(2代虎徹)は、江戸時代初期に江戸で活躍した刀工。長曾祢興里の跡を継いで2代目となりましたが、虎徹銘の作は少ないため、一般に「2代虎徹」と呼ばれることはありません。師である長曾祢興里同様、非常に高い人気を集めた刀工だったことから、多くの贋作が制作されました。
陸奥大掾三善長道(初代)は、江戸時代に陸奥国で活躍した刀工。切れ味に優れた作を鍛えたことから「会津正宗」(あいずまさむね)の他、その作風は長道が私淑していた長曽祢興里(初代虎徹)に近かったため、「会津虎徹」とも呼ばれていました。
名実共に高名な最上大業物の刀には、様々な伝説や逸話が存在。そして、その伝説や逸話から異称、号が付けられることも多いのです。最上大業物のなかでも、特に切れ味の鋭さを誇る最強の刀の伝説・逸話をご紹介します。
「石灯篭切虎徹」(いしどうろうぎりこてつ)は、長曾祢興里(初代虎徹)が作刀した作のなかでも、最も著名な刀のこと。
ある旗本が長曾祢興里に刀の作刀を依頼したときのこと。その旗本は、刀が完成した段階で長曾祢興里へ値切りの交渉をしようとします。これに怒った長曾祢興里は、切れ味の良さを示すために自身が鍛えた刀で松の枝を切ってみせました。すると、刀は松の枝だけではなく、その下にあった灯篭まで真っ二つに切り落としてしまったのです。後日、旗本が長曾祢興里のもとへ要求された金額以上を持って訪れましたが、すでにその刀は別の人間へ売ってしまったあとだったため、旗本は長曾祢興里の刀を手に入れることができませんでした。