日本刀は、一見するとどれも同じに見えますが、大きさによって「太刀」や「打刀」、「脇差」、「短刀」などに分類されます。また、この他にも作刀者や作刀年代、作刀された地域、その時代の戦闘形式によって、様々な形状の刀が作られました。各時代、各地域で発達した刀工集団のなかには、「刀匠」と呼ばれる、優れた腕前を持つ刀鍛冶が多く存在します。そして、その作は日本史上有名な戦国武将や、幕末時代に活躍した志士達に愛用されました。それぞれの時代では、どのような刀匠が活躍していたのか。時代別に活躍した著名な刀匠とその作をご紹介します。
「三条吉家」(さんじょうよしいえ)は、平安時代の保元(1156~1158年)頃に山城国(現在の京都府南半部)で活躍した刀匠です。「天下五剣」(てんがごけん)の1振「三日月宗近」(みかづきむねちか)を作刀した「三条小鍛冶宗近」(さんじょうこかじむねちか)の子または孫と言われており、京都の三条に居住していたことから三条吉家と呼ばれています。
三条吉家の作風は三条小鍛冶宗近に似ていますが、寸法はやや短く、重ね厚く、身幅(みはば)と焼幅(やきはば)は共に広く、刃中の金筋(きんすじ)、稲妻などは太くなっており、総体がしっかりしているのが特徴。
「刀 額銘 吉家作」は、三条吉家の少ない在銘作のひとつ。本刀は、鍛え板目に杢交じり、地沸(じにえ)付き、映りごころある地鉄(じがね)となっており、刃文(はもん)は小乱れに丁子乱れ(ちょうじみだれ)を交え、二重刃(にじゅうば)風となっている部分もあり、非常に優雅です。
「大原安綱」(おおはらやすつな)は、「刀工の祖」と呼ばれる、平安時代中期に伯耆国(現在の鳥取県西半部)で活躍した刀匠。天下五剣のひとつ「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)の作刀者であり、現存する在銘日本刀では最古の刀匠として有名です。
大原安綱の作風は、身幅、重ね共に頃合いで、平肉が付く高貴な姿。刃文は、沸(にえ)本位の小乱れに小丁子風の乱れが交じり、粗い銀粒のような感じの良い沸が付き、平安時代の作のなかでもしっかりした華やかさがあるのが特徴。
「刀 無銘 伝安綱」は、公家の名門「西園寺家」伝来の打刀で、のちに「豊臣秀吉」のもとへ渡り、その後再び西園寺家へ戻りました。本刀は大磨上無銘で、鍛えは板目に大板目が交じって肌立ち、刃文は小乱れに小丁子が交じり、刃縁はほつれ、総体に厚い沸が付いています。また、刃中には砂流し・金筋がかかり、湯走りが入っており、古風で優雅さが感じられる名刀です。
「豊後国行平」(ぶんごのくにゆきひら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて豊後国(現在の大分県)で活躍した刀匠です。「後鳥羽上皇」の「御番鍛冶」(ごばんかじ)のひとりで、彫刻の名人としても知られています。
豊後国行平の作風は、反りの深い姿に、焼幅の狭い小沸のよく付いた直刃(すぐは)、または小乱れで、特に鎺(はばき)上6~7cmの部分から焼き出す「焼き落とし」が特徴。
「太刀 銘 豊後国行平作」は、「徳川御三卿」のひとつ「一橋徳川家」に伝来したと伝わる太刀です。本刀は、踏ん張り風が見られ、腰反り高く、細身で小鋒/小切先となっており、鎌倉時代初期に作刀されたことを示す優雅な太刀姿となっています。
「来国俊」(らいくにとし)は、鎌倉時代後期に山城国で活躍した刀工一派「来派」(らいは)を代表する刀匠で、在銘作のうち文化財に指定されている作数は、来派のなかでも最多です。
来国俊の太刀の作風は、反り深く、先身幅は細く、鋒/切先(きっさき)はしっかりした小鋒/小切先。短刀の作風は、寸法、身幅、重ねがすべて頃合いで品位があり、刃文は沸本位の直刃ほつれ、小沸よく付き、金筋・稲妻なども豊富な働きがあり、地鉄は杢目肌(もくめはだ)でよく詰んでいるのが特徴。
「太刀 銘 来国俊[本庄松平家伝来]」は、丹後国宮津藩(現在の京都府宮津市)藩主「本庄松平家」(ほんじょうまつだいらけ)へ伝来した太刀。本刀には「衛府太刀拵」(えふだちこしらえ)と呼ばれる拵(こしらえ)が附属しており、この拵に添えられた「九目結紋」(ここのつめゆいもん:9つの[目結紋]が描かれた家紋の一種)は、江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)の生母「桂昌院」(けいしょういん)の実家である本庄松平家の家紋です。
「五郎入道正宗」(ごろうにゅうどうまさむね)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて相模国(現在の神奈川県)で活躍した刀匠。名工や刀工集団を輩出した日本刀における5つの生産地の伝法「五箇伝」(ごかでん)のひとつ「相州伝」(そうしゅうでん)を実質的に完成させた人物として知られています。
五郎入道正宗の作風は、浅い京反り(きょうぞり:神社の鳥居を連想させる[鳥居反り]の異称)、身幅広く、重ねやや薄く、鋒/切先は延び、フクラは枯れている点の他、美しさと実用をかね備えた作が多いのが特徴。
「刀 無銘 伝正宗」は、「明治天皇」の父である「孝明天皇」(こうめいてんのう)の愛刀です。刃文は小湾れ(このたれ)乱れに互の目乱れが交じり、相州伝の神髄とも言える焼き入れ法が、強く輝くように冴えた沸によって表現されています。本刀は、「日本刀中興の祖」と呼ばれた正宗の特徴がよく示された1振です。
室町時代は、平和な前期と、戦国時代へ移行した後期で刀の姿が大きく変化しました。室町時代前期の刀は、実用向きではなく、鎌倉時代前期に近い優美な姿が特徴です。一方で、室町時代後期は戦闘形式が騎乗戦から徒歩戦へ変化した影響で、それまで主流だった長大な太刀を、腰に差して携帯できるように短く切り詰めて使用した他、太刀より短く扱いやすい打刀が多く作刀されました。
「村正」(むらまさ)は、「妖刀村正」の名で知られる、室町時代から江戸時代初期にかけて伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)で活躍した刀匠です。「妖刀」と言われる以前から切れ味に優れた作を多く作っていたことから、その知名度は全国的に広まっていました。
村正の作風の特徴は、表と裏の刃文が揃った「村正刃」の他、茎(なかご:刀身のなかでも柄[つか]に納める部位)の形状が魚の「たなご」に似た「たなご腹形」となっている点などが挙げられます。
「脇差 銘 勢州桑名住村正」は、村正が作刀した「脇差」(わきざし)です。身幅広く、重ね薄く、刃文は焼きの高い互の目乱れの皆焼(ひたつら)状となっており、金筋・砂流しかかる相州伝の作風。また、本刀は「勢州桑名住村正」という、村正が在住していた地名が銘に切られた珍しい1振です。
「和泉守兼定[之定]」(いずみのかみかねさだ)は、室町時代後期に美濃国(現在の岐阜県南部)で活躍した刀匠で、歴代の「兼定」のなかでも特に人気と実力が高かった人物として知られています。美濃国関(現在の岐阜県関市)で作刀された刀を「関物」(せきもの)と言い、和泉守兼定は関物のなかで最も覇気に富んだ刀を作刀しました。
和泉守兼定の作風は、身幅広く、鋒/切先延びた相州伝を思わせる姿に、大乱れや箱乱れなどの活気に満ちた刃文が焼かれているのが特徴。
「薙刀 銘 和泉守兼定作」は、若狭国小浜藩(現在の福井県小浜市)の初代藩主「京極高次」(きょうごくたかつぐ)が所有していたと言われる薙刀(なぎなた)です。重ね厚く、焼きが高く、また刃文は互の目丁子に尖りごころの刃が交じり、金筋・砂流しがかかる、豪華で美しい点が見どころとなっています。
江戸時代は、戦乱が終わりを迎え、刀工達にとっても大きな変化が訪れた時代です。甲冑(鎧兜)や鉄砲の需要がなくなったため、甲冑師、または鉄砲職人から刀鍛冶を本業とした刀工がいた一方で、諸藩のお抱え工となり安定して刀を作刀する刀工など、各地域の刀工は様々な形で刀剣需要に応えました。
「堀川国広」(ほりかわくにひろ)は、安土桃山時代に活躍した刀匠で、京の一条堀川で作刀したことから堀川国広と呼ばれるようになりました。堀川国広を祖とする刀工一派「堀川一門」は彫物の名手で、堀川一門が作刀した刀には不動明王像や梵字(ぼんじ)などの刀身彫刻(とうしんちょうこく)が施されているのが特徴です。
堀川国広の作風は、京の堀川へ定住する前と定住したあとで異なります。堀川へ定住する以前は、「天正打ち」(てんしょううち)と呼ばれる、末相州(すえそうしゅう:室町時代に相模国で作刀された相州伝の刀)や末関物(すえせきもの:室町時代後期に美濃国関で作刀された刀)に近い作風。堀川に定住したあとは、「慶長打ち」と呼ばれる、相州伝の名工を意識した作風が多く作刀されました。
「刀 銘 洛陽一条堀川住藤原国広」は、備前国岡山藩(現在の岡山県御野郡)の筆頭家老「伊木長門守忠澄」(いぎながとのかみただすみ)の愛刀です。慶長打ちの特徴がよく表われており、堀川国広が作刀した刀のなかでも稀に見る傑作となっています。
「肥前国忠吉」(ひぜんこくただよし)は、江戸時代初期に肥前国(現在の佐賀県)で活躍した刀匠です。もともとは武家の出身ですが、祖父と父を戦で失ったため、一家で刀匠へ転身。上京したのち、同時期に活躍していた刀匠「埋忠明寿」(うめただみょうじゅ)に弟子入りして刀鍛冶としての技術を磨きました。
肥前国忠吉の作風の特徴は、新刀屈指の姿と気品さを誇る点。また、「肥前肌」と呼ばれる鋼を何度も折り返して鍛錬し、研ぎ上げた末に現われるきめ細やかな美しい地肌も、肥前国忠吉の見どころのひとつ。
「刀 銘 肥前国忠吉[倶利伽羅]」は、「大英博物館」の日本刀展示会で、日本刀の代表作の1振として展示された名刀です。名称の「倶利伽羅」(くりから)は、刀身に彫られた刀身彫刻から付けられました。本刀には、倶利伽羅の他に「三鈷柄付剣」(さんこつかつきけん:密教で使われる祭神具の一種)が彫られており、どちらの彫刻も本刀の見どころとなっています。