「天下五剣」(てんがごけん)とは、数ある日本刀のなかでも「名刀中の名刀」と評される5振の刀①童子切安綱(どうじぎりやすつな)、②大典太光世(おおてんたみつよ/おおでんたみつよ)、③数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ)、④三日月宗近(みかづきむねちか)、⑤鬼丸国綱(おにまるくにつな)のこと。天下に名高い5振の名刀天下五剣とは、どのような刀なのか、それぞれが持つ逸話を中心に、各刀を作刀した刀工や来歴などをご紹介します。
天下五剣
「天下五剣」(てんがごけん)は、現在では知る人ぞ知る「名刀中の最高峰」として著名ですが、「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)、「大典太光世」(おおてんたみつよ/おおでんたみつよ)、「数珠丸恒次」(じゅずまるつねつぐ)、「三日月宗近」(みかづきむねちか)、「鬼丸国綱」(おにまるくにつな)の5振を天下五剣と呼ぶようになった正確な時期や命名者などは、史料がないため不明です。
この5振の刀が揃って刀剣書(刀剣に関する研究書)に登場したのは、江戸時代後期。1828年(文政11年)に出版された「諸家名剣集」(しょかめいけんしゅう:享保名物帳[きょうほうめいぶつちょう]の写本の一種)には、「五振ノ内也」(5振の内なり)という、天下五剣の5振に関する情報が掲載されており、これが天下五剣の初出とされています。
「太刀 銘 安綱」(名物 童子切安綱)は、「鬼を切った」という逸話で知られる、天下五剣のなかでも最古の存在とされる名刀。
童子切安綱が切ったのは、丹波国(現在の京都府中央部と兵庫県東部)の「大江山」(おおえやま)に住んでいた「酒呑童子」(しゅてんどうじ)と呼ばれる鬼です。童子切安綱の「童子」(どうじ)は酒呑童子から来ているとされており、酒呑童子は平安時代中期頃に京の人びとを脅かす鬼として悪名を広めていました。
源頼光
悪さばかりする酒呑童子に手を焼いていた「一条天皇」(いちじょうてんのう)は、武勇に優れた武将「源頼光」(みなもとのよりみつ)に鬼退治を命じます。
源頼光は、「頼光四天王」と称される4人の武将「碓井貞光」(うすいさだみつ)、「渡辺綱」(わたなべのつな)、「卜部季武」(うらべのすえたけ)、「坂田公時」(さかたのきんとき)とともに出発。
しかし、源頼光達は酒呑童子が拠点としていたお城「鬼ヶ城」(きがじょう)を見付けられず、途方にくれます。すると、複数人の老僧(ろうそう:年老いた僧)が現れて、「山伏に変装すると良い。そして、鬼達にこの酒を飲ませなさい」と、鬼が飲むと毒に変わる不思議な酒を源頼光に渡しました。
源頼光達が言われた通りに山伏姿へ変装したところ、目的としていた鬼ヶ城へと辿り着きます。そして、源頼光達は鬼達から歓迎を受け、隙を見て老僧から授かった毒酒を鬼へ振る舞いました。毒酒を飲んだ鬼は次々と倒れ、源頼光達にその首を切り落とされていきます。こうして源頼光達は、無事に鬼退治をすることができたのです。
「太刀 銘 光世作」(名物 大典太光世)は、天下五剣の他に「重宝三振」(じゅうほうさんふり:室町幕府15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)が選定し、豊臣秀吉へ贈った3振の名刀)や名物、「国宝」など、様々な肩書・称号を持つ名刀です。
日本刀には、数多くの名刀がありますが、そのなかでも重宝三振、名物、国宝、そして天下五剣の4つの肩書を持つのは大典太光世だけ。そして、大典太光世は「霊力が宿る刀」として古くから大切にされていました。大典太光世の不思議な逸話をご紹介します。
豪姫
「病魔を退ける逸話」は、戦国武将「前田利家」(まえだとしいえ)の四女で、「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)の正室となった「豪姫」(ごうひめ)に関するお話。
あるとき、豪姫は原因不明の病に倒れてしまいます。医者が診ても原因が特定できないため、前田利家は加持祈祷(かじきとう:病気や災厄を祓うために行う祈祷・儀式)を行いますが、豪姫の病状は一向に回復しません。
前田利家は、「豪が回復しないのは、物の怪の仕業に違いない」と確信。豊臣秀吉が持つ「霊力が宿る」とされる大典太光世なら、病魔を退けてくれるのではないかと考え、豊臣秀吉に「大典太光世を貸してくれないか」と頼み込みます。豊臣秀吉は、「旧知の友人からの頼みを断るやつはいない」と快諾。
その夜、前田利家は大典太光世を豪姫の枕元へと安置しました。すると、豪姫の病状はたちまち回復。安心した前田利家は、豊臣秀吉に大典太光世を返却しますが、その晩に再び豪姫が病に倒れてしまいます。そして、前田利家は大典太光世を借りて枕元へ置き、豪姫が回復したところで返却する、ということを3度繰り返しました。
豪姫が再び回復したところで、大典太光世を返却しに来た前田利家は、豊臣秀吉から「もう返さなくて良い」と言われます。こうして、大典太光世は加賀藩・前田家へ渡り、以後同家の家宝として大切にされました。
なお、この逸話は伝承によって、登場人物が前田利家ではなく、前田利家の四男「前田利常」、豪姫ではなく前田利常の正室「珠」(たま)、豊臣秀吉ではなく江戸幕府2代将軍・徳川秀忠となっている場合がありますが、この場合でも「枕元に大典太光世を置くと病状が回復し、大典太光世を返却するとまた病に倒れる」という展開になります。
鐺(こじり)
大典太光世が持つ2つ目の逸話の舞台は、「伏見城」(現在の京都市伏見区桃山町にあったお城)です。
ある夜、豊臣秀吉の重臣達が伏見城で雑談をしていたときのこと。ひとりの武士が「深夜、伏見城の廊下を歩いていると、帯刀[たいとう]する刀の鐺[こじり:鞘[さや]の先端部、またはそこに付ける保護具]を何者かに捕まれて進めなくなる」と怖い話をはじめました。
その話を聞いた前田利家が「武士ともあろう者が、怪異に恐れてどうする」と笑うと、居合わせた武士は「恐れないと言うなら、前田殿もやってみると良い」と1本の軍扇(ぐんせん:軍陣に用いる扇)を渡し、廊下を渡った証拠として廊下の先にそれを置いてくるように提案。さらに、その話を聞いた豊臣秀吉は面白がって、前田利家に大典太光世を貸与しました。
怪談話をした翌朝。家臣達が見に行くと、廊下の端には軍扇が置いてありました。前田利家が怪異に遭遇しなかったのは、大典太光世の霊力が魔物除けとして働いたからだと一同は驚きます。
一方で、前田利家の豪胆さに感嘆した豊臣秀吉は、大典太光世をそのまま褒美として前田利家へ下賜。以後、大典太光世は永らく前田家の神聖な家宝として大切にされました。
「太刀 銘 光世作」(名物 大典太光世)は、「光世」(みつよ)や「三池光世」(みいけみつよ)の通称で知られる、平安時代後期に筑後国三池(現在の福岡県大牟田市三池)で活躍した刀工「三池典太光世」(みいけてんたみつよ)。光世に関する史料はほとんど残されていないため、古剣書(こけんしょ:古い刀剣書)によってもその生没年や活動時期は異なりますが、「平安時代後期に活動した」というのが現在の通説です。
光世と銘(めい:刀に入れられる、作刀者や所有者などの情報)を切った刀工は数名存在し、大典太光世を作刀したのは「初代の光世」と言われています。三池の地で作刀した刀工一派を「三池派」(みいけは)と呼び、光世の後裔は九州地方北部で最も栄えた刀工一派として名を馳せました。
のちに三池派は徐々に衰退していきますが、分派した刀工達は九州地方各地へ移住後、継承したその技術を後世へ伝えたと言われています。
時代 | 所持者 |
---|---|
室町時代 | 歴代足利将軍 |
戦国時代 | 室町幕府15代将軍・足利義昭 |
豊臣秀吉 | |
前田利家 | |
江戸時代 | 加賀藩・前田家 | 現 代 | 育徳財団(現在の[公益財団法人前田育徳会]) |
日蓮
「太刀 銘 恒次」(名物 数珠丸恒次)は、日蓮宗(法華宗)を創始した「日蓮上人」(にちれんしょうにん)、通称「日蓮」(にちれん)の愛刀です。
本刀は、1274年(文永11年)、日蓮が甲斐国(現在の山梨県)身延山(みのぶさん)を新たな布教拠点として定めた際に、地元の村民から献上された太刀(たち)と言われています。このとき、日蓮は「仏に仕える身であるため、武器はいりません」と断りますが、村民は引かなかったため、その誠意に心を打たれて太刀を受け取りました。
のちに、「久遠寺」(山梨県南巨摩郡身延町身延)の前身となる草庵(そうあん)が完成したことで、日蓮は太刀を再び村民へ返そうとします。しかし、村民は「日蓮様の守り刀として下さい」と返答。以後、日蓮は本刀の柄(つか)に数珠をかけ、「破邪顕正」(はじゃけんしょう:誤った思想を正し、道理を示すこと)の太刀として、本刀を常に携帯したと言います。
数珠丸恒次は、日蓮が入滅(にゅうめつ:高僧が亡くなること)したあと、久遠寺の寺宝として大切にされていましたが、いつしか所在不明となり、永らく行方が分からなくなっていました。
数珠丸恒次が再び発見されるのは、大正時代に入ってからです。1920年(大正9年)、刀剣鑑定家「杉原祥造」(すぎはらしょうぞう)氏によって偶然発見された数珠丸恒次は、杉原祥造氏の手によって久遠寺へ持ち込まれます。しかし、久遠寺は本刀を贋作(がんさく:本物に似せて作られた偽物)と判断したため、これを拒否。
のちに杉原祥造氏は、当時在住していた兵庫県尼崎市の「本興寺」(ほんこうじ)が、日蓮の教えを信仰していることを知り、同寺へと数珠丸恒次を奉納。以後、数珠丸恒次は本興寺の寺宝として大切に保管され、毎年11月3日に行われる「虫干会 大宝物展」(むしぼしえ だいほうもつてん)で一般公開されています。
数珠丸恒次の作刀者は、平安時代後期から鎌倉時代前期に備中国青江(現在の岡山県倉敷市)で活動した刀工「恒次」(つねつぐ)。
恒次は、青江の地で活動した刀工一派「青江派」(あおえは)に属する刀工です。青江派は、活動時期によって①古青江(こあおえ)、②中青江(ちゅうあおえ)、③末青江(すえあおえ)の3期に区分されるのが特徴。
古青江派は、日本刀の過渡期とされる平安時代後期から鎌倉時代前期に活動しました。刀剣愛好家の間でも特別な存在として知られており、そのなかでも恒次は古青江派の代表刀工として高い知名度を誇ります。
恒次と銘を切った刀工は数名存在し、初代の恒次は「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が定めた「御番鍛冶」(ごばんかじ:月替わりで作刀を担当する刀工)のうち、5月を担当しました。
また、恒次の兄弟である「貞次」(さだつぐ)や「次家」(つぐいえ)も刀工として優れた腕前を持っていたことから、それぞれ2月と8月の御番鍛冶を担当しており、これは古青江派の刀工がいかに高い作刀技術を持っていたかを示しています。
「太刀 銘 三条」(名物 三日月宗近)は、徳川将軍家が所蔵した宝刀のなかでも、歴代当主以外にその姿をほとんど観ることができない「幻の名刀」と称された刀。刀身(とうしん)に三日月型の打徐け(うちのけ:刃縁[はぶち]に見られる、弧状の働き)があることが「三日月」の名称由来となっています。三日月宗近は、「日本刀が好きな刀剣ファンなら、誰しも一度は観てみたい」と言われるほどの名刀として有名。
1929年(昭和4年)に刊行された「日本名宝物語」(日本の文化財を紹介する書物)には、公爵「徳川家達」(とくがわいえさと)が所蔵する刀として、三日月宗近が紹介されています。本書には、「三日月宗近を観た人は現在、日本に5人といない」との記述が存在。また、「三日月宗近は、他の追随を許さぬ2つの驚きがある」として、「1000年前に作られたにもかかわらず、一点の汚れ・染みがないこと」、「他の刀には見られないほどの、神秘的な上品さを持っていること」という2つの特徴が挙げられています。
さらに、実際に三日月宗近を鑑賞した政治家の「一木宮相」(いつききゅうしょう)や「犬養毅」(いぬかいつよし)は、「三日月宗近が持つ圧力の前に、思わず頭を垂れたという」との記述があり、これは三日月宗近の美しさを示す逸話として有名です。
三日月宗近を作刀したのは、「宗近」(むねちか)の通称で知られる、平安時代に山城国(現在の京都府)で活躍した刀工「三条小鍛冶宗近」(さんじょうこかじむねちか)。
宗近は、平安時代に活躍した刀工のなかでも、特に優れた腕前を持っていたとされる3名の刀工「日本三名匠」(にほんさんめいしょう)のひとりに数えられる刀工です。名の「三条」は、宗近が京の三条(現在の京都市中京区)を拠点として作刀を行っていたことが由来となっており、同地で活動した刀工一派を「三条派」(さんじょうは)と言います。そして、宗近はこの三条派の創始者としても有名で、宗近が作刀した刀はいずれも優美な姿をしているのが特徴です。
なお、「能」や「狂言」のなかには、宗近が登場する「小鍛冶」(こかじ)と呼ばれる演目が存在。小鍛冶は、刀を主題とした能のなかで最も有名な演目で、宗近が人の姿に化けた「霊狐」(れいこ:狐の神)とともに刀を作るシーンは、浮世絵の題材としても人気を博しました。
時代 | 所持者 |
---|---|
戦国時代 | 豊臣秀吉 |
ねね(高台院:こうだいいん) | |
徳川秀忠 | |
江戸時代 | 徳川家 |
現 代 | 徳川家達 |
中島喜代一(なかじまきよいち) | |
渡邊三郎(わたなべさぶろう) | |
東京国立博物館 |
北条時頼
「太刀 銘 国綱」(名物 鬼丸国綱)は、鎌倉幕府5代執権「北条時頼」(ほうじょうときより)の命によって作刀された名刀です。号の「鬼丸」の由来は、軍記物語「太平記」に書かれています。
鎌倉幕府中期の頃。鎌倉幕府初代執権「北条時政」(ほうじょうときまさ)は、夢のなかに現れる小鬼によって、眠れない日々を過ごしていました。
ある夜、枕刀(まくらがたな:寝床に置く護身用の刀)としていつも置いていた、刀工「国綱」(くにつな)の太刀が老翁(ろうおう:老人)の姿となって夢に現れます。
老翁は、北条時政へ「私の刀身は鬼に触れられたことで錆[さ]びて、鞘から抜け出すことができない。私の錆びを落としたあかつきには、お前を悩ませる小鬼を退治してみせよう」と告げると、たちまち消失。
翌朝、北条時政が言われた通りに刀を手入れすると、刀はひとりでに動き出し、傍にあった火鉢を真っ二つにしました。火鉢を確かめると、ひとつの飾頭(かざりがしら:骨董品などに付属する飾り)が落ちており、よく見るとそれは夢のなかで北条時政を苦しめていた鬼と同じ顔をしていたのです。
飾頭を切り落としたことで、北条時政は夢にうなされることがなくなり、以後、本刀は鬼丸の名を付けられて大切にされました。
なお、この逸話は「北条時政の活躍年代と、作刀者である国綱の活動年代がずれている」ことや、「国綱は5代執権・北条時頼に招かれて鎌倉に下向したとされている」ことから、後世になってから書かれた刀剣書によっては、小鬼に悩まされていた人物を北条時政から北条時頼、または、国綱の活躍年代に活動した3代執権「北条泰時」(ほうじょうやすとき)へ変更して書かれている場合があります。
鬼丸国綱を作刀したのは、国綱の通称で知られる刀工「粟田口国綱」(あわたぐちくにつな)。国綱は、鎌倉時代前期に山城国と近江国(現在の滋賀県)を結ぶ街道で、「京の7口のひとつ」と言われる「粟田口」(あわたぐち:京都市東山区・左京区にまたがる地名)で活躍した刀工一派「粟田口派」(あわたぐちは)の代表工として有名です。
粟田口派の開祖「粟田口国家」(あわたぐちくにいえ)の6人兄弟の末弟で、のちに鎌倉幕府5代執権・北条時頼に招かれて鎌倉へ移住しました。当時は、国綱のように各地から腕に覚えのある名工が鎌倉へ多く招集されており、その刀工達が「五箇伝」(ごかでん:日本刀の主な5つの生産地。別表記として五ヵ伝、五ヶ伝)のひとつ「相州伝」(そうしゅうでん)の礎を築いたのです。
古剣書によると、鎌倉へ移住した刀工達は、山内(山ノ内)の鍛冶場で刀を作ったとされています。国綱が作刀した刀のなかには、「山内住国綱」や「山内住藤原国綱」という銘が切られた作品が確認されているため、国綱も山内の鍛冶場で作刀していたと推測されているのです。