日本刀は、その役割や寸法によっていくつかの種類に分けることができます。「太刀」(たち)や「打刀」(うちがたな)は刃長が2尺(約60.6cm)以上と規定。それより短く、江戸時代の武士が打刀と共に腰に差した日本刀が「脇差」(わきざし)です。「短刀」(たんとう)はさらに短く、1尺(約30.3cm)以下。短刀のなかでも合戦の際に活用されたのが「鎧通」(よろいどおし)で、甲冑を身に着けた相手に有効な武器でした。脇差と短刀、鎧通の特徴に焦点を当てながら、区別できるポイントを見ていきます。さらに、「刀剣ワールド財団」が所蔵する脇差・短刀・鎧通の名刀から1振ずつをご紹介しましょう。
脇差と短刀の長さの違い
泰平の世となり、秩序を重んじるようになった江戸時代には、「武家諸法度」(ぶけしょはっと)によって差料(さしりょう:自分が腰に差すための刀)の寸法が身分ごとに規定されました。この規定は、「打刀」(うちがたな)の予備的な役割を担った「脇差」(わきざし)や、「短刀」(たんとう)も例外ではありません。脇差は打刀より短い1~2尺(約30.3~60.6cm)と定められ、武士は打刀と脇差の大小2本を腰に差すこととなりました。
短刀はさらに短い1尺以下の日本刀です。「懐剣」(かいけん)または「懐刀」(ふところがたな)と呼ばれる護身用の短刀は4~5寸(約12~15cm)ほど。「寸延短刀」(すんのびたんとう)は1尺以上の刃長(はちょう)がある短刀を指しますが、現在の登録制度では脇差に分類されます。
1637年(寛永14年)の「島原の乱」を最後に幕末までは大きな戦が起こらなかった江戸時代。日本刀が武器として使われることはほとんどなくなりましたが、打刀と脇差という大小2本差しが武士の身分を示す象徴になったため、日常的に携帯されていました。
そんな打刀と脇差は、同じ拵(こしらえ:日本刀の外装)で揃えるのが通例です。一見しただけでは区別しにくいのですが、打刀の拵には「小柄」(こづか:日本刀に付属する小刀)と「笄」(こうがい:髷を整える結髪道具)が含まれるのに対し、脇差には小柄のみが付き、笄は付きません。
そのため、打刀の鍔(つば)には刀身を通す中心の茎穴(なかごあな)の他に、半月形の小柄櫃孔(こづかびつあな)と笄櫃孔(こうがいびつあな)という2つの穴がありますが、脇差の鍔は小柄櫃孔のみとなっています。
武士が主君など他家の屋敷へ上がる際の作法として、打刀は刀掛け(かたなかけ)へ置くか、その家の者に預けますが、脇差は将軍の御前などを除き腰に差したままでした。脇差は正式な武器としての位置付けがなかったためで、武士ではない武家奉公人や町人にも携帯が許されていたのです。
その一方、打刀を預けた状況でひとたびことが起これば、武士は脇差1振で主君を守るといった対処をすることになり、予備の刀剣として決して軽んじられる存在ではありませんでした。
脇差の種類
刀身に施されているのは、師である正宗の叔父で刀剣彫刻師だった「大進房」(だいしんぼう)の技法を受け継いだ彫物。差表(さしおもて)には三鈷剣(さんこけん:災厄を祓う仏具)、梵字(ぼんじ)、蓮台(れんだい)、鍬形(くわがた)が、差裏(さしうら)には独鈷杵(どっこしょ:仏と祈る人とが一体となることを表現した仏具)と梵字が刻まれ、貞宗の繊細な技量の一端を垣間見ることができます。
短刀は刃長が1尺(約30.3cm)以下の日本刀で、ほとんど反り(そり)がありません。また、打刀や脇差と違って鍔を付けないため、「合口/匕首」(あいくち)とも呼ばれます。短刀は、非力な女性や体の小さな子どもでも扱いやすく、主に護身用の刀剣として使われました。
また、災厄や邪気を祓うお守りの一種としても利用され、これを「守り刀」(まもりがたな)と言います。今日でも天皇家及び宮家で子どもが誕生した際には、天皇より打ち卸し(新品)の守り刀を贈る「賜剣の儀」(しけんのぎ)が行われています。
和装の結婚式では、守り刀としての懐剣が花嫁衣裳の必需品となっています。現代では本物(真剣)の懐剣を使用することはありませんが、これは武家の娘が護身用の懐剣を持っていたことに由来。組紐の付いた懐剣袋が打ち掛けの帯に差してあるのを見ることができます。
本短刀は鎬(しのぎ)のない平造り(ひらづくり)の作品で、刀身がやや刃側に反っている内反り(うちぞり)ごころ。差表には「不動明王」(ふどうみょうおう)が持つ素剣(そけん/すけん)と梵字が、差裏には不動明王の化身である護摩箸(ごまばし)と同じく梵字が彫られています。いずれも仏教の守護神である不動明王の霊験あらたかな厄除けの意味を持つ文様です。
「鎧通」(よろいどおし)とは、甲冑を着た相手と組み合って戦う際、関節部分や首元などのすき間を狙うために用いる短刀のこと。身体の右側に差すことから「馬手差し」(めてざし)とも呼ばれます。
鎧通は使用するときに逆手に持つため、刃長は肘までの長さより短い9寸5分(約28.8cm)以下で、多くは7寸(約21.2cm)前後。刀身の手元に近い部分の重ね(かさね)が厚い頑丈な造込み(つくりこみ)であったため、城を攻略する場合には石垣に差して足場として利用しました。
鎧通は敵との接近戦になったとき相手に奪われたりしないよう、通常の日本刀とは逆に柄(つか)を後ろに向け、鞘(さや)の先端部である鐺(こじり)を前に向けて腰に差したと言われています。その様子は、甲冑姿の戦国武将「細川澄元」(ほそかわすみもと)を描いた肖像画でも観ることが可能です。