現在の愛知県新城市豊島に城跡があり、「三河野田城」や「根古屋城」(ねごやじょう)の別称でも知られる「野田城」は、もともと「野田菅沼氏」の歴代当主がその居城としていました。しかし戦国時代に、野田城では「今川氏」や「徳川氏」、「武田氏」など錚々たる戦国武将達の間で争奪戦が起こり、1590年(天正18年)まで何度も繰り返されています。なかでも有名なのが、1573年(元亀4年)に武田軍と徳川軍が対立した「野田城の戦い」。同合戦は「武田信玄」(別称「武田晴信」[たけだはるのぶ])にとって最後の戦いとなったと伝えられていますが、その理由について野田城の歴史を辿りながら探ると共に、野田城跡の観光にご活用いただける見どころなどもご紹介します。
野田城跡
野田城(愛知県新城市豊島)は1516年(永正13年)に築かれ、廃城となる1590年(天正18年)までの約75年間、存続したと伝えられています。
野田城の築城者と言われているのが、野田菅沼氏の初代当主「菅沼定則」(すがぬまさだのり)。野田菅沼氏は「田峯城」(だみねじょう:愛知県北設楽郡)を本拠とした田峯菅沼氏の庶流で、奥三河(旧三河国[現在の愛知県東部]北東部の山間部)の国人として権勢を振るっていたのです。
菅沼定則はもともと、野田城から南東方向へ約1km離れた場所に位置する「野田館」に住んでいました。しかし、水害が頻発したことや防備が不十分であることを理由に、1508年(永正5年)頃より野田城の築城計画に着手し始めたと推測されています。
この築城計画の開始時期は、①「吉田城」(愛知県豊橋市:別称・今橋城[いまばしじょう])や②「長篠城」(愛知県新城市長篠:別名・末広城[すえひろじょう])の築城時期と同じ頃のこと。2城とも東三河への侵攻を進めていた今川氏の城として築かれていたことから、野田城もその影響を受けて築かれたとする説もあります。
どの理由が野田城築城の理由として真実なのかは定かではありませんが、築城主の菅沼定則が同城を居城としたのち、その子である「菅沼定村」(すがぬまさだむら/さだすえ)、同じく孫の「菅沼定盈」(すがぬまさだみつ)もそれぞれの居城としました。
1529年(享禄2年)に菅沼定則は、「徳川家康」の祖父に当たる「松平清康」(まつだいらきよやす)が東三河を侵攻して来たときに、その配下に入ります。しかし、1535年(天文4年)に松平清康が亡くなると菅沼定則は、他の東三河の国人達と同じように、駿河国(現在の静岡県中部、及び北東部)の今川氏に臣従することにしたのです。
ところが、1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」で今川氏11代当主「今川義元」(いまがわよしもと)が討死。当時の野田城主・菅沼定盈は今川氏が没落したことを受けて、翌1561年(永禄4年)に松平氏から自立した「松平元康」(まつだいらもとやす:のちの徳川家康)に寝返りました。
このように野田城の城主は時流に合わせて、服属先を転々としていたのです。
菅沼氏が松平(徳川)方の配下となって以降、野田城は何度か戦火にさらされることに。1561年(永禄4年)に菅沼定盈は同城を今川軍に攻囲されたため、開城後に退去。翌年に菅沼定盈は、夜襲を掛けて今川方から野田城を奪還しますが、城郭が激しく損壊してしまったことにより、一時的に拠点を「大野田城」(新城市野田)に移しています。
武田信玄
1571年(元亀2年)以降、甲斐国(現在の山梨県)の武田氏による三河侵攻が本格化したことに伴い、大野田城を含む周辺地域が武田方に侵略されました。
しかし、このときに菅沼定盈は、徳川氏から服属先を変えることはしなかったのです。
そののち、武田氏は1572年(元亀3年)、上洛を大きな目標に据えた「西上作戦」(さいじょうさくせん)に至るまでに、遠江・三方ヶ原(みかたがはら:現在の浜松市中央区三方原町近辺)において徳川・織田連合軍と対峙(三方ヶ原の戦い)。そして翌1573年(元亀4年)1月、同合戦で徳川家康に勝利を収めた「武田信玄」率いる武田軍が、再び野田の地を襲来したのです。
歌川芳虎 作「三河後風土記之内 天龍川御難戦之図」(所蔵:刀剣ワールド財団)
これによって勃発したのが、世に言う「野田城の戦い」。このとき、攻め込んできた武田方の軍勢の数は30,000人にも及んでいましたが、菅沼定盈を中心とした徳川軍の兵はたった500人でした。しかし菅沼定盈はこの兵士達と共に、堅固なかつての野田城に立て籠もり、武田軍に対抗します。
この籠城戦において徳川方は、圧倒的な兵力差があったのにもかかわらず、武田軍からの猛攻に何とか耐えていました。ところが菅沼定盈は、武田軍によって水の手が断たれたこと、加えて徳川家康からの援軍がなかったこともあり、城の命運が尽きたと覚悟を決め、開戦から約1ヵ月後に開城降伏したのです。
野田城の戦いで武田軍の総大将を務めた武田信玄でしたが、同合戦後より約2ヵ月経った1573年(元亀4年)4月、体調を崩してしまったために侵攻を中断し、軍勢と共に甲斐へ引き返す道中で、そのまま亡くなったと伝えられています。
その死因は、武田氏の軍学書「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん)などに基づいて病状の悪化であったとするのが通説。しかし、後世になってから唱えられるようになった異説のひとつに、武田信玄が自軍の兵と共に野田城を攻囲していた際、徳川軍から狙撃された傷が原因であったとするものがあります。
この逸話が記されているのは、徳川氏創業時代の事件をまとめた同氏の家伝である「松平記」。同著によると武田信玄は、野田城から聴こえてきた美しい笛の音に誘われ、本陣から出たところを、菅沼定盈の家臣「鳥居三左衛門」(とりいさんざえもん)に火縄銃で城内から狙撃されたと言うのです。
これと似たような逸話は、江戸時代に菅沼定盈の末裔が著した「菅沼家譜」にもあります。しかし、同著では菅沼側から見た出来事として、「夜陰での鉄砲狙撃後、武田軍の陣中が騒がしくなった」というような記述があるのみで、命中したかどうかは不明となっているのです。
野田城が落城したことを契機として、徳川氏の三河防衛網が崩壊。徳川氏が三河支配の重要拠点としていた吉田城や「岡崎城」(愛知県岡崎市)が、武田軍からの攻撃を受ける危険性が高まります。しかし、前述の通り、武田信玄の病状が悪化したことで三河侵攻を一時的に取り止めたため、両城とも武田氏による落城を免れたのです。
野田城主であった菅沼定盈は同城を武田方へ明け渡す際、城兵の生命の保証を引き換え条件として、武田氏に連行されました。しかし、1573年(元亀4年)3月10日に菅沼定盈は、徳川氏と武田氏の間で人質交換が行われたときに解放され、徳川方への帰参が叶ったのです。そののち、武田信玄没後の1574年(天正2年)には、野田城を武田方から奪還することに成功します。そして菅沼定盈は、再び城主として野田城への入城を果たしたのです。
1575年(天正3年)5月に菅沼定盈は、武田信玄の四男「武田勝頼」(たけだかつより)と織田・徳川連合軍の決戦となった「長篠の戦い」(ながしののたたかい)に参戦。「徳川四天王」のひとりに数えられる徳川家康の重臣、「酒井忠次」(さかいただつぐ)が率いた「鳶ヶ巣山」(とびがすやま)奇襲隊の一員となって大きな武功を立てています。
1590年(天正18年)には「豊臣秀吉」の命により、徳川家康が関東へ移封(いほう)されることに。このとき、主君・徳川家康に随行することとなった菅沼定盈は野田城を出ます。
池田輝政
そのあとは、豊臣秀吉の家臣「池田輝政」(いけだてるまさ)が、三河における徳川氏の重要拠点のひとつであった吉田城へ入城し、自身の家臣「片桐半右衛門」(かたぎりはんえもん)を「新城城」(しんしろじょう:新城市西入船)へ城代(じょうだい:城主の代わりに城を守りながら政務を代行する者)として派遣。
そののちに野田城は破却され、遂に廃城のときを迎えたのです。
築城当時の野田城は、南北に長く延びる丘陵地の形状に合わせて、北側より①「三の丸」・②「二の丸」・③「本丸」がそれぞれ配された3つの「曲輪」(くるわ:別称[郭])が続く、いわゆる「連郭式縄張」(れんかくしきなわばり)の「山城」でした。
現在の野田城跡には、「土塁」(どるい)と「空堀」(からほり)が遺されており、これらを観ることが可能です。しかし、三の丸を囲む曲輪があった場所は雑木などがかなり生い茂っているため、整備されている二の丸、及び本丸の場所から足を踏み入れると散策しやすいかもしれません。
また、野田城内で最も北側に存在した曲輪は北西部が突き出しており、土塁のような形状のわずかな高まりと溝のような窪みが認められます。これらのことと古絵図を照らし合わせて、その場所が半円形の「丸馬出」(まるうまだし)であった可能性が高いと考えられているのです。
伝 信玄公、狙撃場所(野田城跡内)
野田城跡内の本丸の隅には、武田信玄が狙撃されたと伝わる場所に、その伝説を記した説明板が立てられています。
また、野田城跡から車で15分ほどのところにある「設楽原歴史資料館」(したらがはられきししりょうかん:愛知県新城市竹広)では、武田信玄狙撃の際に用いたとされる火縄銃「信玄砲」(新城市指定文化財)を展示しており、実際にその銃身を鑑賞することが可能です。
さらに過去には、武田信玄が聴き惚れた笛の音に焦点を当て、野田城跡をステージにした篠笛コンサート「野田城址 野田城伝」が開催された他、日本映画界の巨匠「黒澤明」(くろさわあきら)監督による1980年(昭和55年)公開の映画「影武者」が、この武田信玄の狙撃伝説を題材にして制作されています。
野田城の戦い後も武田信玄が亡くなっていなければ、徳川氏が武田氏に滅亡させられる未来が待っていたかもしれません。しかし、そうはならなかった要因が武田信玄の狙撃伝説にあったとすれば、たった1発の銃弾で歴史が大きく変えられたことになります。
決して大きいとは言えない規模の野田城が、今なお人々を惹き付けてやまないのは、そんな歴史的浪漫溢れる伝説が遺されているからだと言えるのです。