愛知にある武将ゆかりの神社仏閣

總見寺と織田信長
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「總見寺」(そうけんじ:愛知県清須市)は、1582年(天正10年)の「本能寺の変」において没した「織田信長」の菩提寺です。織田信長の子「織田信雄」(おだのぶかつ/おだのぶお)が創建しました。建立後には何度か移転したものの、歴代尾張藩主の庇護を受け、織田家に関する寺宝も所蔵している寺院です。「總見寺と織田信長」では、總見寺の概要と来歴についての他、織田信長との関係についてなどをご紹介します。

總見寺とは

興聖山總見院

興聖山總見院

愛知県清須市に位置する「興聖山總見院」(こうしょうざんそうけんいん)は、戦国三英傑のひとり、織田信長の菩提寺です。

しかし總見院が創建された経緯は複雑なため、この寺院について理解するには、まず滋賀県近江八幡市安土町にある「遠景山摠見寺」(えんけいざんそうけんじ)について知らなければなりません。遠景山摠見寺及び興聖山總見院に関する、大まかな来歴についてご紹介します。

總見寺の来歴

滋賀県にある遠景山摠見寺は、織田信長が築いた安土城の山麗(さんろく:山のふもと)に建立された寺院です。しかし1854年(安政元年)の火災によって、本堂をはじめ主だった伽藍(がらん:寺の建物)が焼失。現在も当時の姿を残すのは礎石(そせき:建造物の基礎にあり、柱の沈下を防ぐための石)や基壇(きだん:建造物を建てるための土盛りや石積み)といった、基礎部分のみとなっています。

摠見寺は、1576年(天正4年)の安土城築城とともに建立されました。しかし、寺院を構成する本堂、三重塔、仁王門(におうもん:寺院において、悪いものが入らないようにする門)、拝殿といった主要な伽藍は、築城年よりも古い建造物が多かったことが記録されています。それにより、近隣の寺院からそれぞれを移築する形で建立されたのが通説です。その摠見寺において織田信長は盆山(ぼんさん:砂礫や石を積んだ小さい山)を造って自身の分身として祀り、権威化を強めました。

1582年(天正10年)の「本能寺の変」で織田信長が没したのちも、摠見寺は「豊臣秀吉」や「徳川家康」により寺領を安堵(あんど:承認、保証すること)。また一度焼失した本堂ですが、1932年(昭和7年)に「伝徳川家康邸跡」へ仮本堂が建造され、現在に至っています。

一方、愛知県にある興聖山總見院は、織田信長が没した翌年の1583年(天正11年)に、菩提寺として清州市に建立したのがはじまりです。織田信雄が伊勢国(現在の三重県北中部)にあった「安国寺」(あんこくじ)を移築し、父・織田信長が建立した遠景山摠見寺にならって「景陽山總見寺」と名付けました。

その後、1610年(慶長15年)の清州越し(きよすごし:徳川家康によって名古屋城築城に際して行われた、町全体の引越し)により、名古屋市大須へ移転。さらに1644年(正保元年)には、尾張初代藩主の「徳川義直」(とくがわよしなお)と「亀姫」(かめひめ:徳川家康の長女、加納御前とも呼ばれる)の帰依をうけて清州市大嶋へ再移転し、興聖山總見院と名前を改め、現在の地におさまっています。興聖山總見院に関する来歴をまとめると、以下の通りです。

1576年
(天正4年)
織田信長により、安土城とともに遠景山摠見寺が建立
1582年
(天正10年)
本能寺の変により織田信長が死去
1583年
(天正11年)
織田信雄によって安国寺を移築し、菩提寺「景陽山總見院」を建立
1610年
(慶長15年)
清州越しにより名古屋市大須へ移築
1644年
(正保元年)
徳川義直と亀姫の帰依により清州大嶋へ再移転、
「興聖山總見院」となる

總見寺の見どころ

興聖山總見院における見どころのひとつは、織田信長の遺品とされる「焼け兜」です。織田信長の次男・織田信雄が、本能寺の変の直後に焼け跡を捜索させて見付け出した物と言われています。その後は織田信雄が手元に留めるものの、清州城を追われた際に、岐阜城主の「織田秀信」(おだひでのぶ:織田信長の孫)へ寄贈。その後も織田家の家老により守られました。

そうした人々の由緒箱書き(はこがき:作者の署名、代々の所有者やその物品のいわれを書いた物)を添え「信長公御召御甲」(のぶながこうおめしのおかぶと)として献納されたと言われています。また興聖山總見院には、その他にも以下の寺宝が現存。拝観は可能ですが、事前予約が必要です。

  • 徳川光友公書「興聖山」扁額
  • 円空仏二躯
  • 唐絹織紫衣 【県指定文化財】
  • 木造聖観音像菩薩立像【県指定文化財】

總見寺と織田信長

總見寺は、織田信長とゆかりの深い寺院のひとつです。そこで織田信長の「摠見寺」における逸話と「興聖山總見院」で現在も続く法要についてご紹介します。

安土摠見寺における舞と能

安土城の山麗にあった遠景山摠見寺では、織田信長が徳川家康をもてなした逸話が残されています。「信長公記」(しんちょうこうき/のぶながこうき:織田信長の軍記)によれば、1582年(天正10年)5月19日、四国征討や備中攻めを進める織田信長は、参陣した徳川家康に対し道中での辛労を忘れるよう「幸若八郎九郎太夫」(こうわかはちろうくろうだゆう)に舞を、丹波猿楽(さるがく:芸能、現在の能楽の古称)の「梅若太夫」(うめわかだゆう)に能をさせました。摠見寺は、客人をもてなすのにもふさわしく、自身の威光を示すためにも適した、織田信長にとっての「とっておき」の場所だったと言えます。

信長忌

織田信長が本能寺の変で「明智光秀」(あけちみつひで)に攻められ、自刃したことは有名です。信長公記によれば、本能寺の変は1582年(天正10年)6月21日(旧暦6月2日)に起きたとされます。旧暦に合わせて、本能寺の変が起きたとされる6月2日の直前となる5月最終日曜日には、興聖山總見院でも、法要として「信長忌」を実施。法要では献茶の儀(けんちゃのぎ)を行い、故人に対するお茶の席を設けています。「信長忌」は一般の方も参加が可能です。

總見寺の施設情報
所在地 〒452-0934 愛知県清須市大嶋1丁目5番地2
拝観時間 10:00~16:00
電話番号 052-400-3322
定休日 なし
拝観料 大人200円、中学生以下無料
駐車場 あり
交通アクセス
  • JR「清洲駅」より徒歩8分
  • 清須東ICより5分(名古屋第二環状自動車道)
    または一宮ICより15分(名神高速道路)
公式サイト

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