鎌倉時代に築かれた城をもとに、愛知県西尾市に完成したのが「西尾城」(にしおじょう)です。現在は一部の建物が再建され、「西尾市歴史公園」として公開。周囲を堀で囲まれた西尾城下町では商業が発展し、江戸時代には60,000石の商業都市として繁栄しました。現在も「三河の小京都」として、かつての城下町の面影を残しています。西尾城とその城下町の歴史についてご紹介。現在の姿についても詳しく見ていきましょう。
西尾城 本丸丑寅櫓
西尾城は、三河国幡豆郡西尾(みかわのくにはずぐんにしお:現在の愛知県西尾市錦城町)にあった連郭式(れんかくしき:本丸と二の丸、三の丸を連なるように配置した物)の平山城。西尾城の起源は、鎌倉時代に「足利義氏」(あじかがよしうじ)が築いた「西条城」(さいじょうじょう)です。
その後、1561年(永禄4年)に「徳川家康」の家臣である「酒井正親」(さかいまさちか)が城主となり、西条(さいじょう)から現在の西尾へ地名が改称。1585年(天正13年)には、酒井正親の子「酒井重忠」(さかいしげただ)が、城の整備、拡張を行い、西尾城として完成させました。
1590年(天正18年)に徳川家康が関東へ移封(いほう:領地替え)となり、それに伴って酒井重忠も西尾城を去ります。代わって城主となったのは、「豊臣秀吉」の家臣「田中吉政」(たなかよしまさ)でした。田中吉政は、西尾城の再整備を実施して三の丸の拡張、大手黒門、新門、櫓門を建設。武家屋敷の整備にも着手します。
1601年(慶長6年)には、徳川家康の家臣「本多康俊」(ほんだやすとし)が20,000石で西尾藩初代藩主となります。以降、西尾藩藩主を務めたのは松平氏、本多氏、太田氏でした。
1638年(寛永15年)に入城した「太田資宗」(おおたすけむね)は、外郭の築城工事を行い、西尾城下町を堀で囲んで総構(そうがまえ)を築きます。次代城主「井伊直好」(いいなおよし)が工事を引き継ぎ、1655年(明暦元年)に完成。1764年(明和元年)には、大給松平氏(おぎゅうまつだいらし)の「松平乗祐」(まつだいらのりすけ)が60,000石で入城し、以降明治維新まで、大給松平氏が5代にわたり西尾城主を務めました。
明治時代を迎え、1872年(明治5年)には天守以下の建物が解体され、西尾城は廃城となりました。その後1995年(平成7年)に、西尾城跡に近衛家(このえけ:摂関家のひとつ)の数寄屋(すきや)棟と茶室棟を移築。翌1996年(平成8年)には、本丸丑寅櫓(うしとらやぐら)と鍮石門(ちゅうじゃくもん)が再建されました。さらに、本丸、二の丸跡の一部が整備され、西尾歴史公園として開園。現在は、西尾の歴史観光スポットとして親しまれています。
西尾城 鍮石門
西尾城下町は、主に太田資宗の時代に整備されました。太田資宗は、城下町の外郭を堀で巡らせ、総構を造成。外郭を防衛線とする都市を築きました。
江戸時代には大給松平氏のもと、60,000石の城下町として繁栄します。中町、肴町(さかなまち)などの通りは、商家、旅籠屋(はたごや:旅館)が立ち並ぶ商業都市として発展しました。
1864年(元治元年)には、木綿、味噌、酒造、呉服商などを営む豪商10軒が、西尾藩より帯刀許可(たいとうきょか:日本刀の所持を許可すること)をされていたとの記録も残っています。
西尾城下町には、堀の内側に須田町、本町などの町人町、城の北側に武家屋敷を配置。武家屋敷の立ち並ぶ侍町の隣にも中町、肴町といった町人町が造成されました。
堀との境界には寺町があり、その外側には防衛策として下級武士の足軽長屋を設置。有力商人が軒を連ねていた本町、中町、須田町、横町、天王町、肴町を「表六ヶ町」と呼び、西尾城下町の産土神(うぶすながみ:土地の守護神)を祀る「伊文神社」(いぶんじんじゃ:愛知県西尾市伊文町)の催し物なども、表六ヶ町が中心となって行いました。
また、西尾には「大名行列」という行事があります。大名行列は伊文神社の祇園祭のひとつとして行われ、江戸時代中期の正徳年間より開始。当時の西尾城主で名君として名高い「土井利意」(どいとしもと)の計らいにより、町人達も侍と同じ格好ができ、西尾城内へ入ることが許可されていました。町人達の楽しみであった大名行列は、現在も夏の「西尾祇園祭」の見どころとなっています。
西尾城下町は、もともとこの地にあった集落を整備して城下町を作ったため、町には武家屋敷、商家、農家などが混在。このような背景から、西尾城下町では身分を超えた深い交流があり、おおらかで独特な風土が形成されていたと考えられています。
西尾市内は「三河の小京都」とも呼ばれ、名産の抹茶を味わえるカフェ、古い寺院などがあり、歩いての散策も楽しむことが可能です。
名鉄「西尾駅」から西尾城よりに北東へ進むと、蔵造りが今も多く存在。また西尾城の北側にある中町通り、肴町通りは、かつて商家が立ち並んだ通り。昭和時代初期に建てられた、高い格子窓を持つ建物が今も残っています。天王町から肴町へと抜ける順海町通りは、往時の雰囲気が最も残された場所で、寺院の石垣と板塀が続く細い路地。江戸時代の古い情緒を感じながら巡ることができる、ウォーキングスポットです。
抹茶の里としても有名な西尾市は、全国生産量の約20%を占める抹茶の名産地。西尾で抹茶が栽培されるようになったのは、「実相寺」(じっそうじ:愛知県西尾市上町)の開祖「聖一国師」(しょういちこくし)が、境内にお茶の種をまいたのがはじまりとされています。
当時は僧侶、貴族のみが愛飲していたお茶ですが、江戸時代初期に西尾藩より栽培が奨励され庶民へ広がりました。明治時代からは地元農家も栽培をはじめ、現在では西尾市の名産品として、抹茶だけでなく、抹茶を用いたグルメを味わえるお店が多数存在。市内を散策しながら抹茶グルメ巡りをするのも一興です。
伊文神社は、平安時代に55代「文徳天皇」(もんとくてんのう)の皇子「八条院宮」(はちじょういんのみや)が、現在の愛知県田原市から移したと伝えられる神社。御祭神として文徳天皇ら3神を祀っています。西尾城下町の産土神として、古くから歴代西尾城主、町人達に信仰されてきました。西尾城主が帰城する際や、正月には必ずこの伊文神社に参詣。
夏に行われる「西尾祇園祭」では、伊文神社から西尾城本丸跡に鎮座する「御剱八幡宮」(みつるぎはちまんぐう:愛知県西尾市錦城町)への神輿の渡御(とぎょ:神輿をわたすこと)が行われ、西尾の風物詩として親しまれています。
尚古荘
「尚古荘」(しょうこそう)は、西尾城の東側にある庭園。西尾城東の丸の遺構を活用し、米穀商「岩崎明三郎」(いわさきあけさぶろう)によって造られました。1,000坪の広大な敷地には、大広間を持つ書院、幕末の歌人「佐々木弘綱」(ささきひろつな)も利用したという茶室「不言庵」(ふげんあん)、庭を見渡せる東屋(あずまや)などの建築物が存在。
枯山水(かれさんすい)の見事な回遊式庭園(かいゆうしきていえん:園内を回遊して楽しむ庭園)は、名古屋の庭師「足立代三郎」(あだちだいさぶろう)による作庭であり、様々な趣向が凝らされています。