静岡県静岡市は、「駿府城」(すんぷじょう)の城下町として知られています。明治時代に静岡市と改称されるまで、静岡市は駿府と呼ばれていました。駿府城は、江戸幕府を開いた「徳川家康」が築城。晩年の徳川家康は駿府城を居城としていたため、駿府城は三英傑のひとりである徳川家康終焉の地でもあったのです。つまり、静岡市は徳川家康が直接統治し、町づくりに深くかかわった城下町。駿府城について解説し、静岡市の歴史、現在の見どころについてご紹介します。
駿府城
駿府は駿河国(するがのくに:現在の静岡県中部、北東部)の中心地。1549年(天文18年)に、徳川家康は人質として駿府へ送られ、以後12年間、駿府で暮らしました。
成長した徳川家康は、大名として頭角を現し、駿河国を手中に収めます。1585年(天正13年)に、幼少期を過ごした駿府の地に築城を開始。天守閣、二の丸が1589年(天正17年)に完成するものの、翌1590年(天正18年)に徳川家康は「豊臣秀吉」の命によって関東へ国替え(領地替え)となってしまったのです。
国替え後は、豊臣氏の家臣「中村一氏」(なかむらかずうじ)が城主を務めることとなりました。その後、天下をめぐる争いに勝利した徳川家康は、改めて駿河国を領国とします。
「関ヶ原の戦い」ののち、徳川家康の異母弟「内藤信成」(ないとうのぶなり)が駿府城に入城。1603年(慶長8年)に、江戸幕府を樹立した徳川家康は、隠居後の翌1607年(慶長12年)には駿府城へ戻り、終生居城としました。
江戸幕府の中心から退いてはいましたが、徳川家康は大御所(おおごしょ)として絶大な権力を保持。駿府城はのちに幾度か大火に見舞われますが、徳川家康はそのたびに再建させて、天守は黄金で光り輝いていたと言われています。
駿府城全体の模型
国替えにより手放した駿府城に大御所として帰ってきた徳川家康は、駿府城の大拡張を計画。城郭として最大規模の天守を建築し、駿府城内は豪壮な城郭が並びました。
同時に、町の西側を流れる安倍川(あべかわ)の治水工事を開始。「駿府九十六ヶ町」と呼ばれる、士農工商制度に準じた職業別の町割をはじめ、城下町の防衛もかねる広大な寺社区画の整備、城下町の中を流れる水路「駿府用水」の導入などを実施します。
こうして駿府城下町は、当時の最新技術を導入した都市へと変貌を遂げ、江戸時代初期、駿府の人口はおよそ100,000~120,000人とされます。江戸の人口が140,000人ほどだった時代に、日本有数の大都市を形成していました。
政治と文化、外交の中心地としての駿府城下町は大いに発展。しかし、徳川家康が亡くなり、江戸幕府の直轄地になると、駿府の人口は10,000人ほどに激減してしまいますが、その後も多くの人々が行き交う東海道の宿場町として栄えました。
駿府の町は、江戸時代の終わりまで駿河国の中心として発展。明治時代に静岡市と名前が変わっても、静岡県の県庁所在地かつ政令指定都市として発展を続けています。
現在、駿府城跡は「駿府城公園」となり、徳川家康ゆかりの名所、歴史的に重要な史跡が市内に点在。徳川家康が手がけた城下町の名残は、格子状の街並みと駿府城跡周辺の町名など随所に見られます。
駿府城下町時代、職業別に町割がされていたため、町名に職業の名前が付けられました。呉服町、研屋町、両替町など現在まで町名が残っている地域もあり、駿府城跡の南側を中心に町名の由来を記載した町名碑が設置されています。例えば、茶町は江戸時代にお茶を扱う茶商が集められた区画。現在でもお茶を扱う企業、店舗、カフェが軒を連ねる、緑茶の香り漂うお茶の町です。
「静岡浅間神社」(しずおかせんげんじんじゃ)は、駿府城公園の西側にある駿河国の総社(そうじゃ:複数の祭神を1ヵ所にまとめた神社)として、古くから人々の信仰を集めてきました。地元では「おせんげんさん」と呼ばれて親しまれています。
徳川家康は、駿府で過ごしていた人質時代に静岡浅間神社で元服。のちに駿府へ戻ってきた徳川家康は、荒廃した静岡浅間神社を再興し、以降徳川氏が手厚く保護しました。
現存するのは、1804年(文化元年/享和4年)から60年あまりかけて再建された建物。総漆塗りに極彩色の装飾で、江戸時代より東海地方における「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう:栃木県日光市)とされてきました。現存する社殿26棟すべてが、国の重要文化財に指定されています。