愛知県田原市にある「田原城」(たはらじょう)は、三方を海と堀に守られ、堅い守りを誇った城です。かつて渥美半島の中心として栄え、田原藩の名家老として知られる「渡辺崋山」(わたなべかざん)にまつわる神社、施設も建てられました。田原城の痕跡、当時から残されている城郭施設、城下町の名残をご紹介します。城下町と田原城が歩んだ歴史を知ることで、田原城下町の散策をより楽しんでみてはいかがでしょうか。
田原城跡桜門(復元)
田原城は、1480年(文明12年)前後に築城されたと考えられています。「戸田宗光」(とだむねみつ)によって、渥美半島(あつみはんとう:愛知県南東部にある半島)の根元に築かれた田原城は、周囲を海、堀に囲まれた堅牢な城でした。城が面する湾の形から、「巴江城」(はこうじょう)の別名があります。
戸田氏はこの城を拠点にして三河湾地域を支配しましたが、その後、田原城周辺の今川氏、織田氏、松平氏などの勢力が拡大。それにより、戸田氏は各勢力に服属したり抵抗したりしながら、生き残りを図っていました。しかし、1550年(天文19年)、ついに海道一の弓取りと呼ばれる「今川義元」(いまがわよしもと)に屈服させられた戸田氏は、田原城を今川氏に明け渡すことになったのです。今川義元に重要な拠点と認められた田原城は、今川義元から信任が厚い重臣達に預けられます。
「桶狭間の戦い」以降、田原城を所有したのが、三河統一を目指していた「徳川家康」でした。田原城を攻略した徳川家康は、重臣「本多広孝」(ほんだひろたか)、「本多康重」(ほんだやすしげ)親子を城代に任命します。この際、本多氏は田原をはじめ近隣の村々を領地として与えられました。
1590年(天正18年)に、「豊臣秀吉」の家臣「池田輝政」(いけだてるまさ)が「吉田城」(よしだじょう:愛知県豊橋市)城主となると、田原城のある渥美半島を含む東三河(ひがしみかわ:愛知県南東部)全域を支配。本多氏に代わり、池田輝政の家臣「伊木忠次」(いぎただつぐ)が田原城の城代となります。
江戸時代になると、再び田原城主は戸田氏へと戻りますが、1664年(寛文4年)に「三宅康勝」(みやけかすかつ)が入城してから、明治維新を迎えるまで三宅氏の居城でした。廃藩置県(藩を廃して府県を設置すること)の翌年、1872年(明治5年)に田原城は廃城となり、城郭施設が取り壊されています。
崋山神社
田原城下町は、城代・伊木忠次により整備されます。当時、海に面していた田原城は、藤田丸と呼ばれる曲輪(くるわ:城壁、堀などで仕切られた区画)によって本丸が背後から守られていました。また、石垣の修築なども同時期に行われ、城の守りを盤石にしたのです。
田原城の南側に城下町が形成されたのは、江戸時代に入ってからのこと。17世紀後半頃に東側の入江で大規模な干拓が行われ、海に面していた田原城は陸地の城となります。田原城は、武家屋敷、藩校 「成章館」(せいしょうかん)などを囲むように外郭がめぐらされた「惣構」(そうがまえ:城と城下町の周囲を石垣、土塁で囲んだつくり)の構造でした。
また、現在も城下町の風情を残す田原市内の「寺下通り」は、江戸時代に田原城下町の最南端として意図的に寺院を集中させた場所です。「城宝寺」(じょうほうじ:愛知県田原市田原町)、「慶雲寺」(けいうんじ:愛知県田原市田原町)、「龍泉寺」(りゅうせんじ:愛知県田原市田原町)、「龍門寺」(りゅうもんじ:愛知県田原市田原町)という4つの寺を結ぶように通りが曲がりくねりながら東西へ走っており、この通りから田原城へ向かう道は、城へ攻め込む敵兵の進みを遅くし、守る側が攻撃をしやすいよう工夫されています。
なお、戦国時代から江戸時代にかけ、長らく渥美半島の要衝とされてきた田原城ですが、明治時代の開発で田原城の周囲は変貌し、現在は空堀、2つの池が残されているのみ。田原城の土塁も長らく残っていましたが多くが崩され、「田原市立田原中部小学校」の南側に、わずかに残るだけとなっています。
田原城の北側には田原藩の家老で、学者としても知られている渡辺崋山を祀った「崋山神社」(かざんじんじゃ:愛知県田原市田原町)があります。
田原城は石垣などの遺構が残っていますが、建築物の多くは廃城に伴って取り壊されたのち、昭和以降に再建。田原城の本丸があった場所には、田原藩三宅家初代の「三宅康貞」(みやけやすさだ)が祀られた「巴江神社」(はこうじんじゃ)があります。
また、田原城の南側、西側にはかつて武家屋敷が立ち並び、再開発を免れた地域の一部に、今も武家屋敷の面影を残す場所が存在します。
田原市博物館
「田原市博物館」は田原城の二の丸があった場所に建設されており、桜門(ろうもん)が出迎えます。ここでは、かつて渥美半島の中心として栄えた、田原城と田原城下町の歴史を知ることが可能です。
館内には、田原藩の繁栄に貢献した渡辺崋山にまつわる資料、飢饉に備えて田原藩が作った「報民倉」(ほうみんそう)の額など、貴重な資料を多数展示。
また、芸術に長けていた渡辺崋山の作品も多く収蔵されているので、美術品鑑賞を目的として立ち寄るのもおすすめです。
「曲尺手」(かねんて)とは、城へ攻め込みにくくするため、わざと鍵の手状に曲げた道のことを指し、城の守備施設として設置されました。田原城下町には、田原城へ向かう道の途中に曲尺手が3つ残っており、いずれも案内板が立っています。田原市の公式サイトからウォーキングマップをダウンロードして、散策の手がかりにするのもおすすめです。
「田原城惣門跡」(たはらじょうそうもんあと)は、遺構として惣門の一部である東側の石垣が残っています。城跡から垣間見える、広く囲まれた石垣と惣門の名残から、田原城の堅牢な守りと歴代城主の力を感じずにはいられません。
「田原まつり会館」(愛知県田原市田原町)は、田原市の中心近くにあり、田原城下町の文化である「まつり」に特化した展示施設です。田原市内で行われるまつりの保存、継承を目的として建てられました。
田原祭りで練り歩く「からくり山車」(からくりだし)の実物3台のうち、2台を常設展示。本物の山車が持つ迫力と華やかさは必見です。また、田原まつり会館には「田原凧」が展示された「凧まつりコーナー」があり、凧作り教室も開催されています。