愛知県と静岡県にゆかりのある古戦場をご紹介しています。
日本では、その長い歴史の中で、数多くの戦いが行われていました。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ら戦国三英傑をはじめ、様々な戦国武将のゆかりの地である愛知県と静岡県でも、様々な合戦に関連する場所が点在しています。
「愛知県・静岡県の古戦場」では、織田信長と今川義元が戦った「桶狭間の戦い」、豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄間の合戦「小牧・長久手の戦い」などが行われた、愛知県と静岡県に位置する古戦場をまとめました。「東海地方で古戦場巡りをしたい」「戦国時代を戦いの面から掘り下げたい」という方におすすめです。
「小牧・長久手の戦い」は1584年(天正12年)3~11月にかけて、約8ヵ月にも及んだ合戦です。この戦いの名称を聞いたことがあっても、誰と誰が戦ったのかまでは知らない方も少なくありません。小牧・長久手の戦いは、「羽柴秀吉」(はしばひでよし:のちの[豊臣秀吉])と「織田信雄」(おだのぶかつ/おだのぶお)・「徳川家康」連合軍との間で起こりました。小牧・長久手の戦いがどのような経緯で起き、どのような結末を迎えたのか、その古戦場がどうなっているのかなどについて詳しくご紹介します。 小牧・長久手の戦い歴史上の人物が活躍した小牧・長久手の戦いをご紹介! 小牧・長久手の戦い/古戦場歴史上の人物が活躍した小牧・長久手の戦い/古戦場をご紹介! 小牧山城跡「小牧山城跡」の施設情報や口コミ、投稿写真、投稿動画をご紹介します。 長久手古戦場愛知県長久手市にある「長久手古戦場」の施設情報をご案内します。
「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)は、1560年(永禄3年)に「織田信長」と「今川義元」(いまがわよしもと)との間で起きた戦いで、織田信長を語る上で外すことのできない出来事のひとつ。それまで圧倒的に不利だと思われた織田信長が、格上の今川義元を見事に討ち取った番狂わせの戦いと言えます。そのため、日本史の授業でもほぼ必ず登場し、今もなおドラマや映画・小説など様々なメディアで取り上げられている戦国時代の代表的な合戦。桶狭間の戦いが起こった経緯やその結末、そして桶狭間の戦い古戦場の現状などについてご紹介します。 桶狭間の戦い 関連YouTube動画 桶狭間の戦い|合戦・古戦場 桶狭間古戦場まつり 桶狭間の戦い歴史上の人物が活躍した桶狭間の戦いをご紹介! 桶狭間の戦い/古戦場歴史上の人物が活躍した桶狭間の戦い/古戦場をご紹介! 桶狭間の戦い 城をめぐる戦いの変遷についてご紹介! 桶狭間古戦場名古屋市緑区にある「桶狭間古戦場」の施設情報をご案内します。
戦国時代には数多くの戦いが行われました。そのなかには規模が大きく歴史に残る戦も多くありますが、なかには、ほぼ情勢に影響がなかった戦も存在します。「石ヶ瀬川の戦い」(いしがせがわのたたかい)もそうした戦のひとつで、現在ではほとんど注目されることはありません。しかし、そんな戦も開戦に至るまでの背景には、注目すべき点が隠されています。そんな石ヶ瀬川の戦いの概要とその古戦場について見ていきましょう。
「長篠の戦い」は、1575年(天正3年)に三河国(現在の愛知県東部)の「長篠城」(愛知県新城市)をめぐり、「武田勝頼」(たけだかつより)率いる武田軍と「織田信長」・「徳川家康」連合軍との間で起こった戦い。織田信長の天下統一の足掛かりとなった戦いとしても知られています。もともとは武田軍が織田信長と同盟を結んでいた徳川家康の三河に侵攻したことをきっかけとして始まりましたが、徳川家康からの応援要請に応じて参戦した織田信長にとっても重要な戦いとなりました。長篠の戦いが起こった背景や経緯、結末といった概要から長篠の戦い古戦場の現在についてご紹介します。 長篠の戦い歴史上の人物が活躍した長篠の戦いをご紹介! 長篠の戦い/古戦場歴史上の人物が活躍した長篠の戦い/古戦場をご紹介! 長篠城跡「長篠城跡」の施設情報や口コミ、投稿写真、投稿動画をご紹介します。 長篠の戦い 関連YouTube動画 合戦・古戦場~長篠の戦い~ 設楽原決戦場まつり
三河国(現在の愛知県東部)・小豆坂を舞台に繰り広げられた「小豆坂の戦い」(あずきざかのたたかい)。今川氏と松平氏、そして織田氏が大きくかかわったこの戦いには、激動の戦国時代の結末を決定付ける要因にもなった話が残されています。また、小豆坂の戦いが行われた場所は、現在古戦場として保存。当時の動乱の激しさをうかがい知ることが可能です。そんな小豆坂の戦いの概要と現存する古戦場について詳しくご紹介します。
尾張国(愛知県西部)における影響力を強固にし、その統一を目下の目標と定めていた「織田信長」は、同地域でさらに多くの戦いを繰り広げていきます。「浮野の戦い」(うきののたたかい)もまたそのひとつであり、織田信長の生涯において見逃すことのできない戦いです。浮野の戦いの背景として挙げられるのが、岩倉織田氏との関係悪化。その背景や経緯、結末をはじめとした概要と残されている古戦場の見どころをご紹介します。
「織田信長」の合戦と言えば、寡兵で急襲して「今川義元」の大軍を潰走させ、天下にその名をとどろかせた「桶狭間の戦い」や、初めて鉄砲を本格的に使った戦いとして知られる「長篠の戦い」などがよく知られています。しかし、織田信長と言えども、最初から天下取りの大戦に乗り出すことができた訳ではありません。織田信長の合戦人生は、その生国である尾張国(現在の愛知県西部)を統一することから始動。尾張国内の戦いの中で、織田信長の実力を織田家中に認めさせた戦いのひとつ「萱津の戦い」(かやづのたたかい)について、古戦場の情報も交えながら詳しくご紹介します。 清州城「清州城」の施設情報や口コミ、投稿写真、投稿動画をご紹介します。
「武田信玄」(たけだしんげん)は、戦国武将の中でも戦闘能力が高い人物として知られています。特に、終生のライバルとして互いにけん制し合っていた「上杉謙信」(うえすぎけんしん)との「川中島の戦い」などは欠かせないエピソード。しかし、甲斐国(現在の山梨県)という周囲を敵に囲まれた地が本拠地だった武田信玄は、なかなか中央に打って出ることのできない運命にありました。そんな武田信玄の活路となったのが「二連木城の戦い」(にれんぎじょうのたたかい)です。武田信玄西上作戦の途上で起きたこの戦いについて詳しくご紹介します。 吉田城「吉田城」の施設情報や口コミ、投稿写真、投稿動画をご紹介します。
「稲生の戦い」(いのうのたたかい)とは、「織田信長」とその弟「織田信行」(おだのぶゆき:別名「織田信勝」[おだのぶかつ])との家督争いに起因する戦いです。稲生の戦いは1556年(弘治2年)8月24日(旧暦)、尾張国(現在の愛知県西部)の有力な武将だった「織田弾正忠家」(おだだんじょうのじょうけ)で発生し、稲生合戦または稲生原合戦と呼ばれることもあります。稲生とは、尾張国春日井郡(現在の名古屋市西区)庄内川に近い場所の地名です。この戦いで織田信長は権力を確固たるものにし、その後の織田家隆盛に繋がる礎を築いたとも言われていますが、どのような顛末だったのでしょうか。稲生の戦いと古戦場について詳しくご紹介します。
「野田城の戦い」(のだじょうのたたかい)は、「武田信玄」(たけだしんげん)が病魔と闘いながら指揮したと言われる攻城戦です。武田信玄は「武田軍団」と呼ばれる精鋭部隊を組織し、その勢力は山梨県から愛知県にまで及びました。武田信玄が晩年に実行したのは、長年の夢だった京へ上洛する「西上作戦」(せいじょうさくせん)。野田城の戦いは、この西上作戦における最後の戦いとなったのです。野田城の戦いや、その古戦場「野田城跡」(愛知県新城市)の現在などについて解説します。 野田城跡愛知県新城市の「野田城跡」情報をご案内します。
「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)は、1573年(元亀4年)に「徳川家康」と「武田信玄」との間で起こった戦いです。徳川家康は武田信玄に大敗を喫し、人生最大ともされる危機に見舞われました。この敗北をその後の教訓とするため、徳川家康は戦い直後の憔悴した自分の姿を絵師に描かせたとされています。それが「顰み像」(しかみぞう)と呼ばれる徳川家康の肖像画。しかし、この顰み像は、近年の研究によって江戸時代に描かれたことが分かっており、さらに、徳川家康の姿でもない可能性があることも解明されました。現在、三方ヶ原の戦いの古戦場には、合戦の説明が書かれた看板と石碑が立っています。 三方ヶ原の戦い歴史上の人物が活躍した三方ヶ原の戦いをご紹介! 三方ヶ原の戦い/古戦場歴史上の人物が活躍した三方ヶ原の戦い/古戦場をご紹介! 三方ヶ原古戦場の碑「三方ヶ原古戦場の碑」の施設情報や口コミ、投稿写真、投稿動画をご紹介します。
「一言坂の戦い」(ひとことざかのたたかい)は、「徳川家康」が「武田信玄」(たけだしんげん)に大敗を喫した「三方ヶ原の戦い」の前年、1572年(元亀3年)に起きた、「二俣城の戦い」(ふたまたじょうのたたかい)の前哨戦です。獅子奮迅の働きをした徳川家康の重臣「本多忠勝」(ほんだただかつ)が、一躍勇名を轟かせた戦いでした。一言坂の戦いがあった場所には現在、石碑が建てられ古戦場として残されています。 これまで放送された大河ドラマ、及び今後放送予定の大河ドラマを一覧で見ることができます。 どうする家康は徳川家康の人生を描いたNHK大河ドラマ。キャストや登場する人物、合戦などをご紹介します。
「箱根・竹ノ下の戦い古戦場」(はこね・たけのしたのたたかいこせんじょう)は、室町幕府初代将軍「足利尊氏」(あしかがたかうじ)と「新田義貞」(にったよしさだ)が戦った場所です。「箱根・竹ノ下の戦い」は、鎌倉幕府を倒したあと、どちらが政権を握るかという主導権争いでした。のちに吉野(現在の奈良県南部)へ逃れた96代「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)の南朝と、足利尊氏が擁立した「光明天皇」(こうみょうてんのう:北朝2代)の北朝の朝廷が同時に存在する「南北朝時代」が始まるきっかけとなります。
「富士川の戦い」は、平安時代末期の1180~1185年(治承4年~元暦2年)に起きた「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん)における合戦のひとつです。当時、朝廷で政権を握っていた「平清盛」(たいらのきよもり)を中心とした平氏に対して、源氏を中心とする地方の武士達が挙兵します。富士川の両岸に平氏軍、源氏軍のそれぞれが陣営を張った夜、水鳥の羽音を聞いた平氏軍は、源氏軍の攻撃と勘違いして逃げ出しました。現在、富士川の戦い古戦場には「平家越の碑」(へいけごえのひ)のみが残されています。 平清盛「平清盛」の生涯とかかわってきた出来事についてご紹介します。 源平合戦歴史上の人物が活躍した源平合戦をご紹介!