愛知県・静岡県の古戦場一覧

三英傑の古戦場
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「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」という、戦国時代に活躍した3人の武将(三英傑)は、全員が現在の愛知県で生まれました。そのため、彼らにゆかりのある戦場の多くは、東海地方とその近郊に点在しています。三英傑のことをより詳しく知りたいなら、実際に古戦場に出掛けてみましょう。同じ場所に立ち、三英傑やその兵士達の気持ちに思いを馳せてみると、歴史をよりいっそう身近に感じられるはずです。

織田信長の古戦場

桶狭間の戦い古戦場

織田信長

織田信長

桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)は、1560年(永禄3年)に現在の愛知県豊明市周辺で起きた戦い。尾張国(現在の愛知県西部)を拠点としていた織田信長が、わずかな手勢で駿河国(現在の静岡県東部)の有力大名「今川義元」(いまがわよしもと)を破り、一躍その名を全国にとどろかせた戦いとして知られます。

合戦のきっかけは、領地を拡大するため尾張国に進出しつつあった今川義元を、織田信長が阻止しようとしたためでした。尾張国に進軍した今川義元は、家臣の働きによって事前に支城となっていた「大高城」(現在の名古屋市緑区)目前の桶狭間まで来ましたが、急な大雨に降られ、進軍を停止。谷に陣取って休んでいたところを、雨のなかを進んだ織田信長軍から急襲を受け、今川義元は落命しました。

今川軍の本陣近くに今も残る寺院・「高徳院」(こうとくいん:愛知県豊明市)には、今川義元の墓所があります。また、2019年(令和元年)、桶狭間古戦場に「桶狭間古戦場観光案内所」がオープンしています。

姉川の戦い古戦場

近江国(現在の滋賀県)を支配した「浅井長政」(あざいながまさ)は、織田信長の妹の「お市の方」(おいちのかた)を正室として迎えており、浅井家と織田家は、もともと良好な関係にありました。

しかし、浅井家と同盟関係にあった越前国(現在の福井県東部)の「朝倉義景」(あさくらよしかげ)を織田信長が攻めたことで、関係は一変。1570年(元亀元年)、織田と浅井軍は姉川(あねがわ:現在の滋賀県長浜市)をはさんで対峙し、「姉川の戦い」が起こります。このとき、両軍は姉川付近で激しく激突し、織田信長は合戦後に「野も畑も死骸ばかり」と記録したほどでした。

現在、姉川の北側に「血原」(ちばら)や「血川」(ちがわ)といった地名が残っているのは、姉川の戦いの際に大量の血が野と川を真っ赤に染めたからだと伝えられています。最大の激戦地は現在の「野村橋」(のむらばし)付近ですが、初めて行く場合は分かりにくいため、事前に「小谷城戦国歴史資料館」(滋賀県長浜市)でガイドマップを手に入れておきましょう。

長篠の戦い古戦場

長篠の戦い」(ながしののたたかい)とは、1575年(天正3年)に織田信長と徳川家康の連合軍が、信濃国(現在の長野県)から南進してきた「武田勝頼」(たけだかつより)軍と激突した戦いです。武田勝頼の目的は、徳川家康が占拠する「長篠城」(ながしのじょう:愛知県新城市)の奪還でした。

15,000人の武田軍に対して、長篠城を守る徳川家康の手勢はわずか500人で、徳川家康から援軍を要請された織田信長は30,000人の兵を用意。織田軍は長篠城の西方約3kmの地点にある設楽原(したらがはら)に布陣すると、戦国最強と名高い武田の騎馬隊に対して、馬防柵(馬を足止めするための木製の柵)の内側から3,000丁の火縄銃で狙撃しました。これによって武田軍は総崩れとなり、織田信長・徳川家康連合軍は圧倒的な勝利を収めたのです。

長篠の戦いの跡地である「長篠の戦い古戦場」は、城まで含めると東西5kmという広いエリア。なかでも「設楽原決戦場」には、織田信長が設置した馬防柵がおよそ100mにわたって再現されている他、長篠城址内では長篠の戦いにまつわる資料が見られる「長篠城址史跡保存館」を訪れることもできます。また、毎年7月に行われる「設楽原決戦場祭り」では、火縄銃の演舞や武者行列など、長篠の戦いを再現した催しが行われるため人気です。

豊臣秀吉の古戦場

山崎の戦い古戦場

豊臣秀吉

豊臣秀吉

1582年(天正10年)、織田信長が家臣「明智光秀」(あけちみつひで)に討たれたという報せを受けた豊臣秀吉は、交戦中だった毛利家とただちに和議を結び、居城の「姫路城」(兵庫県姫路市)までの70kmをわずか1日半で駆け戻ります。すぐに戦支度を整え、3日後には35,000人の兵を引き連れて京都の入り口である山崎(やまざき:京都府乙訓郡)に到着し、15,000人の明智軍と激突しました。

こうして幕を開けた「山崎の戦い」(やまざきのたたかい)でしたが、開戦からわずか2時間で、明智軍は「天王山」(てんのうざん:京都府乙訓郡)で敗北。明智光秀の最期は諸説ありますが、敗走の途中で落武者狩り(百姓が村の防衛等のために、戦に負けて逃亡中の武士を襲うこと)に遭って死亡したとも伝わります。

現在、天王山の頂上まではハイキングコースが存在。7合目辺りにある「旗立松」(はたたてまつ)は、豊臣秀吉が軍旗を掲げた松があった場所で、かつて戦場だったエリア全体を見渡すことができます。

賤ヶ岳の戦い古戦場

賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)は、織田信長の没後、織田家の指導者としての立場を、家臣である豊臣秀吉と「柴田勝家」(しばたかついえ)が争った戦い。賤ヶ岳は滋賀県長浜市にある標高421mの小山ですが、戦いは山中で行われた訳ではなく、山を中心とする一帯が舞台となりました。

織田信長が「本能寺の変」で討たれてから半年後の1582年(天正10年)12月に、柴田勝家が所有していた「長浜城」(滋賀県長浜市)を豊臣秀吉が攻略。当時、柴田勝家は越前国(現在の石川県、福井県北部)におり、積雪で身動きが取れなかったため、翌1583年(天正11年)3月の雪解けとともに大軍を率いて長浜城へ向かいました。豊臣秀吉は長浜城で迎撃しましたが、大いに苦戦。最終的には、柴田勝家の家臣・「前田利家」(まえだとしいえ)が突然戦線を離脱したことによって、豊臣軍は優勢となり、柴田勝家は一族や家臣とともに自刃しました。かつて一帯には戦没者の慰霊碑が点在していましたが、1982年(昭和57年)の合戦400年を機に賤ヶ岳山上に移設されています。

小牧・長久手の戦い古戦場

賤ヶ岳の戦いののち、天下人としての地位を固めつつあった豊臣秀吉に反発したのが、織田信長の次男・「織田信雄」(おだのぶかつ)です。1584年(天正12年)、織田信雄は徳川家康と通じ、豊臣家の家老3名を誅殺。これに対して、豊臣秀吉は30,000の大軍を率いて大坂城を出発し、織田信雄の本拠地である「小牧城」(こまきじょう:愛知県小牧市)を攻めました。さらに、豊臣方の「池田恒興」(いけだつねおき)と「森長可」(もりながよし)が、徳川家康の故郷・三河国(現在の愛知県東部)を奇襲しようとします。

しかし、この作戦を事前に察知した徳川家康が先手を打ったことで、豊臣軍は形勢不利になりました。しかし、その直後に、豊臣秀吉の恫喝に屈した織田信雄が独断で和議を結んだため、徳川家康は豊臣軍と争う大義を失い、撤兵を余儀なくされました。これが「小牧・長久手の戦い」です。双方100,000を超える兵が動員されただけあって、古戦場の主な史跡は愛知県小牧市・春日井市・瀬戸市・長久手市と、広範囲にわたっています。

徳川家康の古戦場

三方ヶ原の戦い古戦場

徳川家康

徳川家康

三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)は、1572年(元亀3年)、広大な三方ヶ原(静岡県浜松市)で行われた、甲斐国(現在の山梨県)の「武田信玄」(たけだしんげん)と三河国の徳川家康による戦。

このとき、武田信玄は室町幕府15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)から織田信長追討の命令を受け、京都に上る途中でした。徳川家康は「浜松城」(静岡県浜松市)を拠点に戦いましたが、武田軍に惨敗し、命からがら敗走したと伝わります。

古戦場は東西約10km、南北15kmという広大なエリアで、長い間、原野でしたが、明治時代になって農地になりました。現在では浜松市のベッドタウンとして整備されており、古戦場の面影はほとんどありません。

関ヶ原の戦い古戦場

関ケ原古戦場記念館

関ケ原古戦場記念館

1600年(慶長5年)、徳川家康が率いる西軍・約80,000人と、「石田三成」(いしだみつなり)を大将とする東軍・約90,000人が激突した、天下分け目の戦いが「関ヶ原の戦い」です。

戦闘は午前8時頃、東軍の「井伊直政」(いいなおまさ)隊が、西軍「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)陣へ発砲したことで始まりました。徳川家康は、開戦前から西軍の「小早川秀秋」(こばやかわひであき)に対して、東軍へ寝返るよう何度も交渉。結果、小早川軍16,000名の裏切りによって西軍は総崩れとなり、わずか1日で勝敗が決したのです。

2020年(令和2年)、JR東海道線「関ケ原駅」近くに、合戦の様子を様々なメディアで伝える「関ケ原古戦場記念館」が完成。内部の展望台からは、それぞれの武将が陣を敷いた場所を詳しく知ることができます。

大坂の陣古戦場

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、天下統一のため、豊臣秀吉の遺児・「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を討ち果たすことを決意。1614年(慶長19年)の「大坂夏の陣」と、1615年(慶長20年)の「大坂冬の陣」を仕掛け、豊臣家を滅亡させました。どちらも市街戦で、「四天王寺」(してんのうじ:大阪市四天王寺区)、「生国魂神社」(いくくにたまじんじゃ:大阪市四天王寺区)、「大阪天満宮」(おおさかてんまんぐう:大阪市北区)など、大阪中心部の寺社のほとんどが大きな被害をこうむっています。

その後、大坂は江戸時代を通じて復興を果たし、今日、古戦場と言ってもその名残りはほとんどありません。しかし、1959年(昭和34年)に始まった学術調査の結果、現在の「大阪城」(大阪市中央区)の地下から石垣が出土し、豊臣秀吉が築いた古い大坂城の遺構ということが分かりました。

三英傑の古戦場

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小牧・長久手の戦い/古戦場

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石ヶ瀬川の戦い/古戦場

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長篠の戦い/古戦場

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萱津の戦い/古戦場

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二連木城の戦い/古戦場

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稲生の戦い/古戦場

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