色彩豊かな「浮世絵」は、日本を代表する芸術作品のひとつ。西洋の印象派にも影響を与えており、例えば、世界的な画家であるクロード・モネは浮世絵の収集家で、浮世絵の影響が見られる作品も描いています。
「愛知県・静岡県の風景 浮世絵」では、そんな浮世絵のなかから、愛知県・静岡県に関する浮世絵についてまとめました。愛知県で行われた歴史的な戦い「小牧・長久手の戦い」、「桶狭間の戦い」をテーマにした浮世絵、愛知県の観光スポット・名古屋城を描いた浮世絵、愛知県を代表する戦国武将の織田信長・豊臣秀吉・徳川家康を主題としている浮世絵や、静岡県の名勝を描いた浮世絵などについてご紹介。愛知県・静岡県の風景を浮世絵でお楽しみいただけます。ただ浮世絵を掲載しているだけでなく、詳細な解説も合わせてご覧いただけるので、歴史に詳しくない方にもおすすめです。
「小牧・長久手の戦い」とは、「豊臣秀吉」が「織田信長」の後継者としての地位をかけて、「織田信雄」(おだのぶかつ:織田信長の次男)・「徳川家康」連合軍と対決した戦いです。豊臣秀吉と徳川家康が直接対決したのは、この戦いが最初で最後。本当に強かったのはどちらだったのかと多くの歴史ファンを今でも虜にしています。小牧・長久手の戦いが描かれた浮世絵をご紹介しながら、気になる勝敗などについて、詳しく解説します。
「桶狭間の戦い」とは、桶狭間(現在の愛知県)が主戦場となった「織田信長軍」対「今川義元軍」の戦いのことです。この戦いに勝った尾張国(現在の愛知県南部)の小大名・織田信長は、その名前を世に知らしめました。一方、負けた今川義元は、「海道一の弓取り」と呼ばれた大大名であったのに、油断して命を落とした愚かな武将と呼ばれるに至ったのです。どうして織田信長は今川義元に勝つことができたのでしょうか。桶狭間の戦いが描かれた浮世絵をご紹介しながら、その秘密に迫ります。
「矢作橋」(やはぎばし)とは、愛知県岡崎市にある「岡崎城」のすぐ近くに架かっている橋のことです。岡崎城は江戸幕府初代将軍「徳川家康」が生誕した城で、城下町が栄え、矢作橋は交通の要路となり、多くの人々が往来しました。「旅」がブームとなった江戸時代後期には、一度は訪れてみたい場所として憧れられたのです。矢作橋が描かれた浮世絵について、詳しくご紹介します。
「名古屋城」は、愛知県名古屋市にある城です。同じ読みの「那古野城」は織田信長が若き日に居住した城ですが、名古屋城は「徳川家康」が九男「徳川義直」(とくがわよしなお)のために新たに建築。江戸時代の最後に建てられた難攻不落の城郭建築で、天守閣には金の鯱(しゃちほこ)が輝き、徳川家、及び尾張徳川家の権威を誇示する象徴となりました。その名古屋城の歴史と名古屋城が描かれた浮世絵について、詳しくご紹介します。
愛知県は、かつて尾張国(現在の愛知県東部)、三河国(現在の愛知県南部)と呼ばれたふたつの国を合わせた県。天下統一をめざした「織田信長」や天下人となった「豊臣秀吉」は尾張国生まれ、江戸幕府初代将軍「徳川家康」は三河国生まれと群雄が割拠。愛知県には「東海道」が通り、政治・経済にかかわる都市として目覚ましく発展しました。そんな愛知県の名所が描かれた浮世絵について、詳しくご紹介します。
愛知県出身の武将として、いちばん人気があると言って過言でないのが、戦国武将「織田信長」です。若い頃は「大うつけ」と呼ばれ、短気で残酷。その反面、華やかで知勇兼備。人を見る目があり、常識にとらわれない革新者であったことが伝えられています。しかし、江戸時代中期までは全く人気がなく浮世絵に描かれることもありませんでした。織田信長はいつから人気者に変わり、どう浮世絵に描かれるようになったのでしょうか。織田信長が描かれた浮世絵について、詳しくご紹介します。
「豊臣秀吉」と言えば、身分が低い家に生まれながらも、天下人まで大出世を遂げた人物。「織田信長」に出会って才覚を見抜かれ、人生が拓かれていきました。豊臣秀吉の一生は、江戸時代に出版された「絵本太閤記」の大ヒットで誰もが知るところとなり、出世したい人達の憧れの存在となっていったのです。豊臣秀吉が描かれた浮世絵について詳しくご紹介します。
江戸幕府初代将軍「徳川家康」は、三河国(現在の愛知県岡崎市)の出身。「織田信長」、「豊臣秀吉」に続いて天下統一を成し遂げた人物です。徳川家康が築いた江戸幕府は、約260年も続き、泰平の世と呼ばれました。その江戸幕府が最も重んじたのが「統制」です。政治批判、風紀風俗の乱れ、奢侈(しゃし:贅沢)は徹底的に取り締まり、浮世絵もたいへんな影響を受けました。数少ない、徳川家康が描かれた浮世絵について、詳しくご紹介します。
「富士の巻狩」(ふじのまきがり)は、1193年(建久4年)の5月から6月にかけて、駿河国富士山麓の藍沢(現在の静岡県御殿場市・裾野市一帯)と富士野(現在の静岡県富士宮市)にて、「源頼朝」の命により行われた大規模な巻狩(巻狩りとも表記)のことです。巻狩とは、鹿や猪のいる狩場を多人数で囲んで行う軍事演習をかねた狩猟のことを指します。富士の巻狩は源頼朝が征夷大将軍としての権威を示すために開催されたと伝えられ、多くの御家人が参加。鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」(あづまかがみ:東鑑とも)に記述され、江戸時代から明治時代にかけては「浮世絵」の題材としても盛んに取り上げられました。
「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)は、1572年(元亀3年)12月22日に三方ヶ原(現在の静岡県浜松市中央区三方原町近辺)で起こった戦いです。遠江国(現在の静岡県西部)へ侵攻する「武田信玄」軍を「徳川家康」・「織田信長」連合軍が迎え撃ったものの、軍を率いた徳川家康は、生涯で最大とも言われる敗北を喫してしまいます。三方ヶ原の戦いは、のちに天下人となる徳川家康が体験した大きな危機のひとつであることから、様々な逸話が生まれ、それらの逸話を題材とした「浮世絵」の名作も数多く制作されました。本記事「三方ヶ原の戦いが描かれた浮世絵」では三方ヶ原の戦いについて述べるとともに、「刀剣ワールド財団」が所蔵する浮世絵の逸品をご紹介します。
「富士山」は、静岡県と山梨県に跨る活火山で、標高3,776mを誇る日本最高峰です。日本の象徴としてその美しい姿が愛されているだけでなく、古来霊峰として信仰の対象にもなってきました。富士山を画題とした「浮世絵」も非常に多く描かれており、「葛飾北斎」(かつしかほくさい)作の「富嶽三十六景」(ふがくさんじゅうろっけい)が最も有名なシリーズと言えますが、もちろん称賛に値する作品はそればかりではありません。本記事「富士山が描かれた浮世絵」では、「刀剣ワールド財団」が所蔵する浮世絵の中から、富士山を主役とした個性豊かな、そして歴史的資料としても貴重な4点をご紹介します。
江戸幕府を開いた徳川家康は、道路制度改革の一環として江戸・日本橋(現在の東京都中央区)を起点とする5つの幹線道「五街道」(ごかいどう)を新設しました。そのなかでも最初に整備され、最も重要視されたのが江戸・日本橋から太平洋沿岸を通って京都・三条大橋(現在の京都府京都市)までをつなぐ「東海道五十三次」(とうかいどうごしゅうさんつぎ)です。現在の静岡県は、この五十三次のうち22の宿場町が置かれた交通の要衝。これらの宿場町の様子は浮世絵の題材としても盛んに取り上げられ、著名な浮世絵師達が静岡県の宿場町を描いて実力を競い合いました。