愛知・名古屋の刀剣情報

徳川美術館の刀剣
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「徳川美術館」(名古屋市東区)は、御三家のひとつ尾張徳川家に伝来した調度品や書籍、刀剣などの宝物を収めた美術館です。そして、1931年(昭和6年)に尾張徳川家19代当主「徳川義親」(とくがわよしちか)氏によって設立され、財団法人「徳川黎明会」が運営しています。収蔵品は、「徳川家康」の遺品にはじまり、徳川家康の九男で初代尾張藩主「徳川義直」(とくがわよしなお)から続く、尾張藩の歴代当主達の大名道具を保管・展示。同館は、国宝となっている「源氏物語絵巻」や「初音蒔絵調度」などを所蔵しますが、なかでも刀剣類の所蔵数は国内最大級です。ここでは、徳川美術館が所蔵している有名な刀剣についてご紹介します。

徳川美術館が価値のある刀剣を収蔵している理由

徳川美術館

徳川美術館

刀剣を持つことは、江戸時代の大名達にとって「武士」であることを示すだけではなく、「大名」としての身分や家格を示すための道具でもありました。同時に刀は、武家の象徴として将軍・大名・家臣の間で贈与に欠くことのできない品として用いられていたため、各大名家は家の名誉のため多くの名刀を所有していたのです。

徳川美術館にも、こうした公式贈与で尾張徳川家が入手した日本刀を所蔵しています。そして前述した通り、徳川美術館の刀剣収蔵品は1,000点を越す日本最大級の規模です。それは数の多さだけではなく質の良さも評価されており、国宝が8振、重要文化財が19振、重要美術品が23振、名物が20振揃っています。

また、刀剣が名刀であるだけではなく氏素性がはっきりしているため、刀剣の伝来を明確に裏付けることができるのも特徴です。その根拠となる史料には、8代将軍「徳川吉宗」が作らせた「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)などの「刀剣名物帳」をはじめ、様々な記録や文書になります。

そして尾張徳川家には、徳川家康から徳川義直に譲られた遺愛品の目録「駿府御分物御道具帳」(すんぷおわけものおどうぐちょう)や歴代藩主の残した道具帳、出入帳など数百冊に及ぶ蔵帳が保管されているのです。数百年もの間、大切にされてきたからこそ刀剣はどれも美しい状態が保たれています。それでは、徳川美術館の有名刀剣を観てみましょう。

太刀 銘 長光/名物 津田遠江長光(たち めい ながみつ/めいぶつ つだとおとうみながみつ)

「津田遠江長光」は、「明智光秀」の重臣だった「津田遠江守重久」(つだとおとうみのかみしげひさ)が「本能寺の変」に乗じて「安土城」(現在の滋賀県近江八幡市)から持ち出し、自らの所用としたことから呼ばれるようになった刀です。津田遠江守重久は、明智光秀が敗北した「山崎の戦い」ののちに「豊臣秀吉」に許され「前田利長」(まえだとしなが:[前田利家]の次男)に仕えるようになります。

こうした経緯から、本太刀は前田家に渡り、さらに徳川将軍家に献上され、江戸時代になる頃に6代将軍「徳川家宣」(とくがわいえのぶ)が4代目尾張藩主「徳川吉通」(とくがわよしみち)に下賜しました。

本太刀は、鎌倉時代に備前国(現在の岡山県東南部)で活躍した「長船派」(おさふねは)の刀工「長光」(ながみつ)が作刀した日本刀です。長光は、長船派の祖である「光忠」(みつただ)の子であるとされ、父・光忠に劣らぬ技量を持つ刀工としても知られています。

作風は、長船派らしい華やかな刃文を焼き、丁字乱れ蛙子交じり、匂い深く匂い足入り刃中の働きが見事。帽子は、浅く乱れこみ尖り心に返り、茎は2寸5分くらいの磨上げです。銘は、佩表(腰に太刀を佩いた場合に体に接していない面。刃が下向きになる。)の鎬地に「長光」と二字銘が刻まれています。

本太刀は1953年(昭和28年)に国宝に指定され、本太刀と同じく国宝である大般若長光(だいはんにゃながみつ)と並んで、長光作の最高傑作とも呼ばれます。

太刀 銘 長光 名物 津田遠江長光

太刀 銘 長光 名物 津田遠江長光

太刀 銘 国宗(たち めい くにむね)

「国宗」は、尾張藩の支藩・高須藩主だった「徳川宗勝」(とくがわむねかつ)が、1739年(元文4年)に尾張藩主へと就任する際に徳川宗勝が持参した日本刀。そして本太刀を作刀した国宗は、備前国・長船派鍛冶の分派である初代「国真」(くにざね)の三男です。

このことから「備前三郎」(びぜんさぶろう)の名で知られ、のちに鎌倉に移り相州伝鍛冶の礎を築いたとも伝わります。本太刀の長さは80.1cm、反り2.5cmで、鎬造り、庵棟、平肉が豊かで品位の高い刀身です。鍛えは小板目つんで鮮明な乱れ映り立つ、刃文は丁子乱れ小沸つき匂い足がさかんに入ります。

茎は少し磨上げで、目釘孔が3つ。銘は国宗と太めの鏨(たがね:金属を加工するための工具)で切り付けが入り、同時代の長船派の刀工達と同じく華やかな丁字乱れを見せる豪華な1振です。本太刀は、1954年(昭和29年)に国宝に指定されました。

太刀 銘 国宗

太刀 銘 国宗

短刀 銘 正宗/名物 不動正宗(たんとう めい まさむね/めいぶつ ふどうまさむね)

不動明王の刀剣彫刻

不動明王の刀剣彫刻

「不動正宗」は、2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)から初代尾張藩主・徳川義直が拝領した日本刀です。

現存する正宗作品には在銘品が少ないことから、銘の刻まれた本短刀は貴重な正宗作品として多くの学者達の研究対象となっています。

本短刀は、相州伝を代表する「正宗」(まさむね)が作刀した日本刀です。相州伝の実質的な創始者である、師もしくは父と伝わる「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)から学び、備前国や伯耆国(現在の鳥取県中西部)の作風を取り込み、沸出来の華麗な刃文を作り上げます。

正宗の作風は、当時の刀工達に大きな影響を与え「正宗十哲」(まさむねじってつ)と呼ばれる正宗の薫陶を受け継いだ10名の刀工を出現させました。作柄は、差表(腰に刀を差した場合に、体に接していない面。刃が上向きになる。)の樋に「滝不動」と呼ばれる「不動明王」が刻まれ、差裏には「護摩箸」(ごまばし:密教で護摩を焚くときに使用する鉄製の箸)を彫刻。

不動明王は、密教の尊格で「厄除け」や「戦いの神仏」として武士に重宝された意匠です。護摩箸も密教にかかわる道具であったことから人気の高い意匠でした。この滝不動の彫刻については、江戸時代の刀剣鑑定家「本阿弥光二」(ほんあみこうじ)の指示で「野間玄琢」(のまげんたく:江戸時代前期の医師・儒学者)の祖父が彫ったと伝わります。

そして本短刀は、1953年(昭和28年)に国の重要文化財に指定されました。

短刀 銘 正宗 名物 不動正宗

短刀 銘 正宗 名物 不動正宗

刀 銘 郷義弘/名物 五月雨郷(かたな めい ごうよしひろ/めいぶつ さみだれごう)

「五月雨郷」は、江戸時代に3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)から2代尾張藩主「徳川光友」(とくがわみつとも)が拝領した刀剣です。江戸時代に著された刀剣書・享保名物帳によれば、刀身にまるで霧がかかっているかのように美しく見えることから「五月雨」と名付けられたとあります。

そして本刀は、南北朝時代に越中国(現在の富山県)で活躍した刀工「江義弘/郷義弘」(ごうのよしひろ)が作刀した日本刀。大磨上げ無銘の作ですが、本阿弥家により江義弘/郷義弘作だと鑑定されました。この江義弘/郷義弘は、前述した正宗十哲のひとりですが、若くしてこの世を去ったこともあり、作品が少なく、また在銘品も皆無の刀工なのです。

このことから「世間にはあるとされているが、実際に見たことのない物の例え」として「郷(江)と化物は見たことがない」という言葉が誕生。

本刀は、1953年(昭和28年)に国の重要文化財に指定されました。

刀 銘 郷義弘 名物 五月雨郷

刀 銘 郷義弘 名物 五月雨郷

太刀 (菊紋)一文字/菊一文字(たち きくもん いちもんじ/きくいちもんじ)

菊一文字は、鎌倉時代に「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が作刀した刀剣と伝わります。後鳥羽上皇は、刀剣をことのほか好んでいて山城国(現在の京都)や備前国などから刀工を集め「御番鍛冶」(ごばんかじ)と名付け、月替りで作刀をさせていました。

後鳥羽上皇が自ら作刀することもあったと言い、本太刀では皇室を示す「菊紋」が確認できることから「菊一文字」、あるいは「菊御作」と呼ばれます。菊は、後鳥羽上皇が好んだ自身の印であり、のちに皇室の印として定着していくのです。

本太刀は、1625年(寛永2年)に2代将軍・徳川秀忠の三男「徳川忠長」(とくがわただなが)から、初代尾張藩主・徳川義直が譲り受けました。作柄は、腰反りのふんばり強く、小切先詰まり、鍛えは小板目つんで乱れ映り立つ。刃文は、表裏共に物打ち辺りに大きく丁子乱れとなり、薄く棟焼きとなります。

そして佩表の鎺下に、16葉の菊紋がうっすら毛彫(けぼり:金属面に髪や毛のように細く刻む技術)されているのです。

本太刀は、1939年(昭和14年)に国の重要文化財に指定されました。

太刀 (菊紋)一文字 菊一文字

太刀 (菊紋)一文字 菊一文字

小太刀 銘 源左衛門尉信国 応永廿一年二月日/名物 松浦信国 (こだち めい みなもとさえもんのじょうのぶくに おうえいにじゅういちねんにがつひ/めいぶつ まつうらのぶくに)

「松浦信国」は、初代尾張藩主・徳川義直が1611年(慶長16年)に、徳川家康の名代で大阪に出向いた際、「豊臣秀頼」(とよとみひでより)から拝領した刀。号が松浦信国となった経緯は記されていませんが、尾張徳川家に伝わる刀剣帳「御腰物御脇指帳」によれば、すでに1651年(慶安4年)の欄に松浦信国と書かれています。

そして、本小太刀を作刀した「源左衛門尉信国」(みなもとさえもんのじょうのぶくに)は、南北朝時代から室町時代の山城国で活躍した刀工です。作柄は、脇差や短刀が多く、広い刀身の中に文字や倶利伽羅龍(くりからりゅう:龍が剣に巻き付く図柄)などを浮彫(平面に絵や模様を浮き上がらせる技法)にするのを得意とした彫刻の名手でもありました。

また同時代の刀工には、源左衛門尉信国と同様に「信国」と銘を切った刀工が3人おり、「式部丞信国」(しきぶのじょうのぶくに)と「刑部尉」(ぎょうぶしょう)を応永年間(1394~1428年)の元号に合わせて「応永信国」と呼びます。その中でも源左衛門尉信国は、1番派手な腰の開いた乱刃を焼き、沸の働きが多いのが特徴です。

本小太刀にも立派な刀身彫刻が施されており、佩裏には「真の倶利伽羅龍」(写実的な彫刻に[真]と付ける)、佩表は珠を追いかける「昇龍」と「降龍」の2匹が用いられています。茎に刻まれた年紀の「応永廿一年二月日」は、源左衛門尉信国が活躍した応永年間であることから、作刀した年月日であることがうかがえます。

小太刀 銘 源左衛門尉信国応永廿一年二月日名物 松浦信国

小太刀 銘 源左衛門尉信国応永廿一年二月日名物 松浦信国

徳川美術館の刀剣

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尾張三作

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愛知県にある国宝の日本刀

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愛知・名古屋の刀工

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