日本刀と現代

日本刀の切り傷がある場所
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現在、日本刀は美術工芸品として全国各地の寺社や博物館、美術館などに展示され、古代から現代に作られた物まで多くの作品を観ることができます。しかし、歴史を振り返ってみると、その用途は美術品として鑑賞されたり、贈答品になったりする以上に、武器として戦いの場で使われることが多かったのです。また、帯刀(たいとう)や所持の規制が厳しくなるまでは、街中で抜刀し刃傷沙汰になることも珍しくありませんでした。そして、戦場や事件が起きた場所のなかには、今なお日本刀による切り傷が残っているところがあります。どのような場所に切り傷があるのか、そこで起きたできごととともに紹介します。

応仁の乱の爪跡「大報恩寺」(千本釈迦堂)

大報恩寺(千本釈迦堂)

大報恩寺(千本釈迦堂)

大報恩寺」(だいほうおんじ)は、京都市上京区にある真言宗智山派(しんごんしゅうちさんは)の寺院。「千本釈迦堂」(せんぼんしゃかどう)とも言われ、その名の由来は本尊の釈迦如来像が厚く信仰されていること、近くに千本通があることなど諸説あります。

創建は鎌倉時代前期の1227年(安貞元年)。「藤原秀衡」(ふじわらのひでひら)の孫である「義空上人」(ぎくうしょうにん)によって開創されたと伝えられています。

国宝に指定されている本堂は創建当時の物で、京洛最古の木造建造物。境内にある霊宝殿(れいほうでん)では、重要文化財の十大弟子像(じゅうだいでしぞう)など、多くの文化財を観ることができます。

長い歴史をもつ大報恩寺の本堂内部には、「応仁の乱」(おうにんのらん)で付けられた刀傷が残っています。応仁の乱は、室町幕府が衰退した原因とも言われ、1467年(応仁元年)から約11年続いた長い争いです。

室町幕府8代将軍の「足利義政」(あしかがよしまさ)と正妻「日野富子」(ひのとみこ)の間に息子が誕生したことに端を発する将軍の後継者問題、有力大名の畠山、斯波(しば)両家の家督争い、そして「細川勝元」(ほそかわかつもと)と「山名宗全」(やまなそうぜん)の対立が複雑に絡み合い、大規模な戦乱に発展していきました。

諸国の武士は細川勝元率いる東軍と山名宗全率いる西軍に分かれて戦い、群雄割拠の戦国時代へ突入。この応仁の乱で山名宗全を中心とする西軍の拠点となったのは、現在の京都市上京区の西陣周辺です。あたり一帯は激戦地となりました。ほとんどが焼き尽くされた洛中にあって、唯一残った建物がこの大報恩寺。境内も戦場となりましたが、奇跡的に戦火を免れました。本堂内部にある柱には刀傷や跡(やじりあと)がいくつもあり、戦いの激しさを物語っています。この柱はもともと外にありましたが、大修理の際に内部の柱として使われたため、現在は本堂で観ることができます。

新撰組・芹沢鴨 暗殺現場「八木邸」

八木邸」(やぎてい)は「新撰組」(しんせんぐみ)の壬生屯所(みぶとんしょ)が置かれた場所です。現在の京都市中京区壬生(みぶ)にあり、建物の東に位置する長屋門は1804年(文化元年)、その奥の主屋は1809年(文化6年)に造られました。新撰組ゆかりの建築としてだけではなく、幕末期の遺構としても貴重であり、1983年(昭和58年)6月1日京都市指定有形文化財に指定されています。

新撰組は、1862年(文久2年)に江戸から上洛する14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)の警護のために集められた、浪士組を前身とする組織です。将軍とともに上洛して間もなく江戸に呼び戻されますが、「芹沢鴨」(せりざわかも)や「近藤勇」(こんどういさみ)、「土方歳三」(ひじかたとしぞう)などは浪士組から分かれて京に残り、新撰組が結成されました。彼らの役割は京都の治安維持。市中警護や狼藉を働く不逞浪士の取り締まりを任されます。

その名を一躍有名にしたのが1864年(元治元年)の「池田屋事件」(いけだやじけん)。長州藩土佐藩といった尊王攘夷派(そんのうじょういは)の不逞浪士達を襲撃した事件です。犠牲者を多くだしましたが、京都市中への放火や「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)のちの「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)暗殺の計画を阻止したことで江戸幕府からの評価が上がりました。

八木邸

八木邸

新撰組発祥の地とも言えるのが、八木邸です。1863年(文久3年)3月、近藤勇らは宿所にしていた八木邸に「松平肥後守御領新撰組宿」(まつだいらひごのかみごりょうしんせんぐみやど)という表札をかかげます。

隊士が増えて手狭になり、「西本願寺」(にしほんがんじ:現在の京都市下京区)に屯所を移すまでの約3年の間、活動の拠点になりました。

また、初代局長を務めた芹沢鴨や「平山五郎」(ひらやまごろう)らが、対立していた近藤勇らによって暗殺される事件が起きます。芹沢鴨は局長でありながら素行が悪く、粛清されてしまいました。

事件の現場となったのもこの八木邸の一室です。邸内には当時の刀傷がそのまま残っており、凄惨さを今に伝えています。

三島由紀夫の自決場所「市ヶ谷記念館」

市ヶ谷記念館

市ヶ谷記念館

「市ヶ谷記念館」(いちがやきねんかん)は、防衛省の敷地内に設けられた建物で、東京都新宿区にあります。もともとは旧陸軍士官学校本部がおかれていた陸上自衛隊市谷駐屯地1号館でした。

旧1号館の竣工は1937年(昭和12年)。大本営陸軍部、陸軍省、参謀本部、陸上自衛隊東部方面総監部などが置かれました。

庁舎建設に伴い一部を移設・復元するかたちで開設され、現在は極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷として使用された大講堂や総監室などを見学することができます。

なかでも総監室は、「三島由紀夫」(みしまゆきお)による「三島事件」(みしまじけん)の舞台となったことでも有名な場所です。三島由紀夫は東京生まれの小説家・劇作家。1949年(昭和24年)の「仮面の告白」で注目を集め、「金閣寺」や「豊饒の海」(ほうじょうのうみ)など様々な作品を発表しました。のちにナショナリズムに傾倒して、自らを隊長とする学生組織の「楯の会」(たてのかい)を結成し、三島事件を引き起こします。

三島由紀夫と楯の会のメンバーは、1970年(昭和45年)11月25日、日本刀を手に当時の自衛隊市谷駐屯地1号館の総監室に乱入。陸上自衛隊東部方面総監「益田兼利」(ましたかねとし)を監禁します。そのあと、バルコニー前に集まった自衛隊員に決起を促す演説を行い、割腹自殺を図って命を落としました。総監室の扉には、益田兼利の救出に来た自衛隊員と三島由紀夫がもみ合った際に付いた刀傷が3ヵ所残っています。

三島由紀夫が自決に使った日本刀は、「孫六兼元」(まごろくかねもと)。「大盛堂書店」(たいせいどうしょてん:東京都渋谷区)の社長であった「舩坂弘」(ふなさかひろし)から著書の序文を書いたお礼に贈られた物でした。孫六兼元は「関孫六」(せきのまごろく)ともよばれる、岐阜県で活動した刀工です。室町時代にはじまり現代まで続いています。

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