「富士の巻狩」(ふじのまきがり)は、1193年(建久4年)の5月から6月にかけて、駿河国富士山麓の藍沢(現在の静岡県御殿場市・裾野市一帯)と富士野(現在の静岡県富士宮市)にて、「源頼朝」の命により行われた大規模な巻狩(巻狩りとも表記)のことです。巻狩とは、鹿や猪のいる狩場を多人数で囲んで行う軍事演習をかねた狩猟のことを指します。富士の巻狩は源頼朝が征夷大将軍としての権威を示すために開催されたと伝えられ、多くの御家人が参加。鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」(あづまかがみ:東鑑とも)に記述され、江戸時代から明治時代にかけては「浮世絵」の題材としても盛んに取り上げられました。
源頼朝
静岡県と山梨県にまたがる富士山は、その荘厳な美しさや、信仰の対象でもあったことから非常に多くの浮世絵に登場します。
「源頼朝」の号令一下、壮大な富士の裾野で行われた「富士の巻狩」もまた浮世絵の題材として人気が高く、「吾妻鏡」(あづまかがみ:東鑑とも書く)に記された逸話など、様々な物語が表現されました。
また、富士の巻狩の期間中に起こったとされる「曽我兄弟の仇討ち」(そがきょうだいのあだうち)事件は浮世絵師達の創作意欲を刺激し、多彩な傑作浮世絵が生み出されたのです。
ここでは、「刀剣ワールド財団」が所蔵する浮世絵の中から、富士の巻狩にまつわる逸話や、曽我兄弟の仇討ちを題材とした名品をご紹介します。臨場感あふれる人物の動き、また細部まで緻密に描き込まれた描写力には目を奪われるばかりです。
本武将浮世絵「源頼朝公富士之裾野牧狩之図」(みなもとよりともこうふじのすそのまきがりのず)は、吾妻鏡にある逸話をもとに描かれています。
富士の巻狩のさなか、突然、大きな猪が源頼朝を目掛けて突進してきました。源頼朝の家臣である「仁田四郎忠常」(にったしろうただつね)は、とっさに大猪に飛び付いて短刀(たんとう)を振るい、これを突き刺して仕留めます。仁田四郎忠常は伊豆国仁田郷(現在の静岡県田方郡函南町)の武士で、源頼朝が挙兵した当初から仕える忠臣のひとりです。
源頼朝は馬に乗ったまま、本武将浮世絵左手奥の小山へ避難して家臣達に守られています。仁田四郎忠常のまわりには、加勢しようとして混乱に陥る者や、他の獲物を狩る者などが躍動感たっぷりに描かれて、その場の喧騒(けんそう)さえ聞こえてくるようです。
本武将浮世絵を描いたのは、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した「2代 歌川国久」(にだい うたがわくにひさ)。「3代 歌川豊国」(さんだい うたがわとよくに:襲名前は歌川国貞[うたがわくにさだ])に師事し、婿養子となった浮世絵師です。武者絵や横浜絵(貿易港として栄えた横浜の異国情緒を描いた浮世絵)を得意とし、本武将浮世絵にも登場している源頼朝の家臣「佐々木高綱」(ささきたかつな)を題材とした「石橋山高綱後殿高名図」(いしばしやまたかつなしんがりこうめいず)などを手がけています。
歌川国久(二代) 作「源頼朝公富士之裾野牧狩之図」(所蔵:刀剣ワールド財団)
本武将浮世絵「浮絵頼朝公富士蒔苅之図」(うきえよりともこうふじまきがりのず)の富士山は、麓と頂上を結ぶ斜面が実際よりも急角度に描かれており、たいへん印象的です。その手前では、源頼朝が弓を手に悠然と馬を進めています。
この富士の巻狩には、のちに鎌倉幕府2代将軍となる12歳の嫡男「源頼家」(みなもとのよりいえ)も参加していました。そして、鹿を射止めることができたのです。鹿は神の使いとされていることから、神によって源頼家が後継者と見なされたと御家人達に知らしめる好機になったとして、源頼朝はたいそう喜んだと言われています。
本武将浮世絵の作者である「歌川国安」(うたがわくにやす)は、「初代 歌川豊国」(しょだい うたがわとよくに)の門人となり江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。武者絵を得意とした他、美人画や役者絵、団扇絵(うちわえ)などでも存分に才能を発揮。初代・歌川豊国の弟子の中でも第一人者と謳われました。
本武将浮世絵においても、存在感が強調された富士山の描写や、スケールの大きな巻狩の様子が丁寧に表現され、その才能の一端をうかがわせています。
歌川国安 作「浮絵頼朝公富士蒔苅之図」(所蔵:刀剣ワールド財団)
本武将浮世絵の題材となったのは、富士の巻狩のさなかに起こった曽我兄弟の仇討ち事件です。
伊豆国(現在の静岡県伊豆半島、他)の武士であった「曽我十郎祐成」(そがじゅうろぞゅう ろうすけなり)と、その弟「曽我五郎時致[時宗]」(そがごろうときむね)は、父親の仇である源頼朝の御家人「工藤祐経」(くどうすけつね)の宿舎へ忍び込み、見事に工藤祐経を討ち取ります。
当然のことながら、宿舎は大混乱に陥り、曽我兄弟と源頼朝の御家人達の間では斬り合いに発展。兄の曽我十郎祐成は御家人の仁田忠常に討たれますが、弟の曽我五郎時致は源頼朝の寝所へ向かったと伝えられています。
本武将浮世絵では、源頼朝の間近まで迫った曽我五郎時致と、これを背後から抑え込もうとする武将「御所[五所]五郎丸」(ごしょのごろうまる)の緊迫した一瞬が表現されました。そのあと、曽我五郎時致は捕らえられ、翌日には尋問ののち処刑されています。
本武将浮世絵の作者は、幕末から明治時代中期にかけて活躍した「月岡芳年」(つきおかよしとし)です。残酷な描写が特徴的な「無惨絵」(むざんえ)で知られる月岡芳年ですが、手がけた浮世絵の分野は多岐にわたり、そのいずれでも高い評価を得ています。とりわけ、師匠である「歌川国芳」(うたがわくによし)譲りの武者絵は傑作揃いであり、本武将浮世絵を含む「芳年武者无類」(よしとしむしゃぶるい)のシリーズは、月岡芳年が打ち立てた武将絵の金字塔として現代でも多くの人々を魅了し続けているのです。