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徳川家康 愛知の武将
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「徳川家康」は、江戸幕府を開いてから265年も続いた幕藩体制を確立した人物として、とても有名な武将。肖像画に描かれた姿から「メタボな殿様」のイメージが強い徳川家康ですが、「織田信長」や「豊臣秀吉」の陰で機が熟すのをじっと待ち、絶好のタイミングで頭角を現した「策士家」としての一面も併せ持っていました。今回は、徳川家康が残した名言や逸話と、徳川家康にまつわる名刀について、その生涯とともにご紹介します。

徳川家康の生涯

徳川家康

徳川家康

徳川家康」は、三河国(現在の愛知県東部)の「岡崎城」(愛知県岡崎市)城主である「松平広忠」(まつだいらひろただ)の長男として誕生。

幼名は「竹千代」(たけちよ)。徳川家康が生まれた頃の三河国は、「今川義元」(いまがわよしもと)や「織田信秀」(おだのぶひで:[織田信長]の父)など、周りを強敵に囲まれ、いつ攻め込まれてしまうかも分からない、そんな緊迫した状況のなかにありました。

1547年(天文16年)、徳川家康が6歳の頃のこと。徳川家康は、今川義元への援軍の見返りに「人質」として出されることになります。ところが、その道中に松平広忠の家臣「戸田康光」(とだやすみつ)の裏切りによって織田信秀のもとへと売り飛ばされて、そのあと、約2年間を尾張国で過ごすことになりました。

松平家当主となる

徳川家康が織田家の人質となって2年後。今川義元が織田信秀の庶長子である「織田信広」(おだのぶひろ)との人質交換を要求したことで、8歳の徳川家康は駿府(現在の静岡県静岡市)へ移送されます。

なお、この時点で徳川家康の父・松平広忠はすでに没していたため、岡崎城は家臣達が守っていましたが、次期当主となるはずの徳川家康は今川義元の人質となっていたことから、岡崎城は実質的に今川氏によって支配された状況にありました。

今川家から独立

1560年(永禄3年)、徳川家康が18歳のときに「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)が勃発。これにより、今川義元が織田信長に討たれると、徳川家康は岡崎城に戻って今川家から独立しました。

そのあと、1562年(永禄5年)に織田信長と清州同盟を結んで三河国を統一し、平定。 

1570年(元亀元年)、織田信長とともに浅井・朝倉軍との「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)に参戦し、徳川家康は本拠地を遠江国に移して「浜松城」(静岡県浜松市)を築城しました。

それから2年後の1572年(元亀3年)には「武田信玄」との覇権争いが激化。「三方ヶ原の戦い」で武田軍と激突し、大敗を喫します。

豊臣秀吉へ臣従を誓う

1575年(天正3年)、織田・徳川の連合軍が「長篠の戦い」で武田信玄の後継者である「武田勝頼」(たけだかつより)に大勝し、遠江国を平定。駿河国も手に入れることになります。

ところが、1582年(天正10年)に「本能寺の変」により織田信長が「明智光秀」に討たれると、織田信長に代わって天下統一を目指す「豊臣秀吉」との対立が激化。1584年(天正12年)に豊臣秀吉と織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)による「小牧・長久手の戦い」が勃発。

徳川家康は、この戦いに織田信雄を救援する形で参戦。この戦いは約8ヵ月に亘って行われましたが、豊臣秀吉と織田信雄が和解したことで終戦し、徳川家康は戦う理由を失ったことで、三河へと帰国しています。

小牧・長久手の戦い後、徳川家康は1586年(天正14年)に大坂城(大阪城)を訪問し、豊臣秀吉に臣従することを誓約。それと同時に甲斐国(現在の山梨県)、信濃国(現在の長野県)の両国を自身の領土に編入して5ヵ国の大名となり、本拠地を浜松城から「駿府城」(静岡県静岡市葵区)へと移しました。

天下統一

1590年(天正18年)、北条氏がたてこもる「小田原城」(神奈川県小田原市)の征伐に参加。結果として豊臣秀吉の命で関東に移封されることとなり、「江戸城」(東京都千代田区)へと入城します。1598年(慶長3年)、豊臣政権の五大老のひとりに任命されますが、豊臣秀吉が逝去。

そして、1600年(慶長5年)に「関ヶ原の戦い」で東軍の徳川家康が西軍を破ったことで、事実上の天下人となったのです。1603年(慶長8年)、征夷大将軍となった徳川家康は江戸幕府を開府。そのあと、徳川家康は将軍職を三男「徳川秀忠」(とくがわひでただ)へ移譲。

1614年(慶長19年)から1615年(元和元年)の2度に亘って行われた「大坂冬の陣・夏の陣」で豊臣家を滅ぼしますが、その翌年の1616年(元和2年)に75歳で亡くなりました。

岡崎公園

東照公えな塚(岡崎公園)

東照公えな塚(岡崎公園)

岡崎公園」(愛知県岡崎市康生町)には、徳川家康が誕生したことを示す史跡が現存。

例えば、徳川家康が生まれたとき、産湯に使用したとされる「東照公産湯の井戸」(とうしょうこううぶゆのいど)や、徳川家康の「へその緒」を埋めたとされる「東照公えな塚」など。

また、岡崎城前には平和を願う徳川家康の遺言碑も建立されています。1992年(平成4年)に催された「家康公生誕450年祭」の際には、450年祭実行委員会が寄付を募って制作した「松平元康像」が岡崎市へと寄贈されました。

この松平元康(徳川家康)の騎馬像は岡崎城を背にしていますが、その視線が向く先には、大権現として生まれ変わるとされている「日光東照宮」(栃木県日光市山内)があるのです。そして、岡崎公園内にはユニークな「しかみ像」と言う銅像が名物のひとつとして存在。

この銅像は、浜松の三方ヶ原で武田信玄の大軍に無謀な戦を仕掛けて大敗し、多くの家臣を失った徳川家康が、将来この自戒の念を忘れないようにと描かせた「徳川家康三方ヶ原戦役画像」をもとに制作されました。

徳川家康の名言・逸話

徳川家康は、幼い頃から人質生活を余儀なくされていたため、人の気持ちに対する洞察力が非常に長けていたと言われています。徳川家康の逸話には、現代のリーダー論に通じるエピソードが少なくありません。

私にとって一番の宝は私のために命を賭けてくれる武士500騎

これは、徳川家康が豊臣秀吉に向けて言った言葉です。徳川家康の家臣団は「三河武士」と呼ばれており、三河武士は「耐え忍ぶ武士」や「主君・徳川家康のために命を惜しまない」と評されていました。 

徳川家康は、自分をも超越するような能力を有する優れた人材を発掘し、育成することに対して非常に熱心だったと伝えられています。

不自由を常と思えば不足なし

幼い頃には人質として不自由な生活を強いられ、また天下人となってからも「質素倹約」を掲げたことで、「ケチ」なイメージがある徳川家康ですが、徳川家康はただのケチな人物ではありませんでした。

人は、生活水準を一度でも上げると、もとの生活水準に戻すことは難しいと言われています。徳川家康がそのことを知っていたかは定かではありませんが、日頃から節制し、不自由なことを不自由と思わずに慣れておけば、文句や不満は出なくなるものです。

なお、徳川家康が普段から質素倹約を努めていた理由としては、幕府運営にかかる莫大な資金を貯蓄するためと推測されています。日常的に質素倹約を行い、必要な資金を貯めておくことでいざというときの出費に備える。この心構えは、現代でも十分通用する思想と言えます。

徳川家康の愛刀

徳川家康をはじめ、江戸幕府で最高権力を握った徳川家、及び支流の家柄は、全国の大名から多くの名刀が献上されたことで有名。一方で、初代将軍となった徳川家康にまつわる名刀は、じつは多くはありません。そんな徳川家康の愛刀のひとつとして最も著名なのが「太刀 銘 妙純傳持ソハヤノツルキ ウツスナリ」という刀です。

本刀は、小牧・長久手の戦いで徳川家康の救援を受けた織田信雄が、徳川家康へ献上したと伝えられる刀。徳川家康はこの刀を非常に気に入っており、合戦以外でも常に持ち歩いたばかりではなく、夜には枕刀(まくらがたな:護身用として枕元へ置く刀)として傍に置いていました。

没する直前の遺言でも、徳川家康は「西国の大名達が徳川家に害を成すことがないように、本刀の鋒/切先(きっさき)を西へ向けて、久能山東照宮へ安置するように」と伝えるほどの溺愛ぶり。

なぜ徳川家康が本刀をここまで愛し、信頼していたのかと言うと、本刀の作者が「三池光世」(みいけみつよ)と呼ばれる刀工だったためです。三池光世とは、平安時代に筑後国(現在の福岡県南西部)で活躍した刀工のこと。三池光世が作る刀には「魔を払う力」が宿るとされているため、徳川家康も本刀を大切にしたのだと推測されています。

ソハヤノツルキ
ソハヤノツルキ
妙純伝持
ソハヤノツルキ/
ウツスナリ
鑑定区分
重要文化財
刃長
69.6
所蔵・伝来
徳川家康 →
久能山東照宮

まとめ

徳川家康は、現在の愛知県岡崎市に生まれましたが、小国の生まれ故に幼き頃から人質生活を余儀なくされ、その経験が「何事にも辛抱して好機を待つ」という忍耐強い性格を育みました。

人質として、今川義元や織田信長などの有力大名に影響を受けて育ちましたが、この経験によって徳川家康は「武将とはどうあるべきか」、「大将とはどうあるべきか」ということを考えるようになったのです。

天下人・豊臣秀吉の前では、じっと自分の気持ちを押し殺して臣下として接した一方で、機が熟したと判断した際には、関ヶ原の戦いや大坂冬の陣・夏の陣で豊臣政権を滅亡させ、江戸幕府を開いた徳川家康。

「鳴くまで待とう」と謡われるほど、忍耐強いその性格や生き様は、現在でも「理想のリーダー像」としてビジネスマンをはじめ、多くの人びとに強い影響を与えています。

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