「徳川家康」は、江戸幕府を開いてから265年も続いた幕藩体制を確立した人物として、とても有名な武将。肖像画に描かれた姿から「メタボな殿様」のイメージが強い徳川家康ですが、「織田信長」や「豊臣秀吉」の陰で機が熟すのをじっと待ち、絶好のタイミングで頭角を現した「策士家」としての一面も併せ持っていました。今回は、徳川家康が残した名言や逸話と、徳川家康にまつわる名刀について、その生涯とともにご紹介します。
徳川家康
「徳川家康」は、三河国(現在の愛知県東部)の「岡崎城」(愛知県岡崎市)城主である「松平広忠」(まつだいらひろただ)の長男として誕生。
幼名は「竹千代」(たけちよ)。徳川家康が生まれた頃の三河国は、「今川義元」(いまがわよしもと)や「織田信秀」(おだのぶひで:[織田信長]の父)など、周りを強敵に囲まれ、いつ攻め込まれてしまうかも分からない、そんな緊迫した状況のなかにありました。
1547年(天文16年)、徳川家康が6歳の頃のこと。徳川家康は、今川義元への援軍の見返りに「人質」として出されることになります。ところが、その道中に松平広忠の家臣「戸田康光」(とだやすみつ)の裏切りによって織田信秀のもとへと売り飛ばされて、そのあと、約2年間を尾張国で過ごすことになりました。
1575年(天正3年)、織田・徳川の連合軍が「長篠の戦い」で武田信玄の後継者である「武田勝頼」(たけだかつより)に大勝し、遠江国を平定。駿河国も手に入れることになります。
ところが、1582年(天正10年)に「本能寺の変」により織田信長が「明智光秀」に討たれると、織田信長に代わって天下統一を目指す「豊臣秀吉」との対立が激化。1584年(天正12年)に豊臣秀吉と織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)による「小牧・長久手の戦い」が勃発。
徳川家康は、この戦いに織田信雄を救援する形で参戦。この戦いは約8ヵ月に亘って行われましたが、豊臣秀吉と織田信雄が和解したことで終戦し、徳川家康は戦う理由を失ったことで、三河へと帰国しています。
小牧・長久手の戦い後、徳川家康は1586年(天正14年)に大坂城(大阪城)を訪問し、豊臣秀吉に臣従することを誓約。それと同時に甲斐国(現在の山梨県)、信濃国(現在の長野県)の両国を自身の領土に編入して5ヵ国の大名となり、本拠地を浜松城から「駿府城」(静岡県静岡市葵区)へと移しました。
1590年(天正18年)、北条氏がたてこもる「小田原城」(神奈川県小田原市)の征伐に参加。結果として豊臣秀吉の命で関東に移封されることとなり、「江戸城」(東京都千代田区)へと入城します。1598年(慶長3年)、豊臣政権の五大老のひとりに任命されますが、豊臣秀吉が逝去。
そして、1600年(慶長5年)に「関ヶ原の戦い」で東軍の徳川家康が西軍を破ったことで、事実上の天下人となったのです。1603年(慶長8年)、征夷大将軍となった徳川家康は江戸幕府を開府。そのあと、徳川家康は将軍職を三男「徳川秀忠」(とくがわひでただ)へ移譲。
1614年(慶長19年)から1615年(元和元年)の2度に亘って行われた「大坂冬の陣・夏の陣」で豊臣家を滅ぼしますが、その翌年の1616年(元和2年)に75歳で亡くなりました。
東照公えな塚(岡崎公園)
「岡崎公園」(愛知県岡崎市康生町)には、徳川家康が誕生したことを示す史跡が現存。
例えば、徳川家康が生まれたとき、産湯に使用したとされる「東照公産湯の井戸」(とうしょうこううぶゆのいど)や、徳川家康の「へその緒」を埋めたとされる「東照公えな塚」など。
また、岡崎城前には平和を願う徳川家康の遺言碑も建立されています。1992年(平成4年)に催された「家康公生誕450年祭」の際には、450年祭実行委員会が寄付を募って制作した「松平元康像」が岡崎市へと寄贈されました。
この松平元康(徳川家康)の騎馬像は岡崎城を背にしていますが、その視線が向く先には、大権現として生まれ変わるとされている「日光東照宮」(栃木県日光市山内)があるのです。そして、岡崎公園内にはユニークな「しかみ像」と言う銅像が名物のひとつとして存在。
この銅像は、浜松の三方ヶ原で武田信玄の大軍に無謀な戦を仕掛けて大敗し、多くの家臣を失った徳川家康が、将来この自戒の念を忘れないようにと描かせた「徳川家康三方ヶ原戦役画像」をもとに制作されました。
徳川家康は、幼い頃から人質生活を余儀なくされていたため、人の気持ちに対する洞察力が非常に長けていたと言われています。徳川家康の逸話には、現代のリーダー論に通じるエピソードが少なくありません。
これは、徳川家康が豊臣秀吉に向けて言った言葉です。徳川家康の家臣団は「三河武士」と呼ばれており、三河武士は「耐え忍ぶ武士」や「主君・徳川家康のために命を惜しまない」と評されていました。
徳川家康は、自分をも超越するような能力を有する優れた人材を発掘し、育成することに対して非常に熱心だったと伝えられています。
幼い頃には人質として不自由な生活を強いられ、また天下人となってからも「質素倹約」を掲げたことで、「ケチ」なイメージがある徳川家康ですが、徳川家康はただのケチな人物ではありませんでした。
人は、生活水準を一度でも上げると、もとの生活水準に戻すことは難しいと言われています。徳川家康がそのことを知っていたかは定かではありませんが、日頃から節制し、不自由なことを不自由と思わずに慣れておけば、文句や不満は出なくなるものです。
なお、徳川家康が普段から質素倹約を努めていた理由としては、幕府運営にかかる莫大な資金を貯蓄するためと推測されています。日常的に質素倹約を行い、必要な資金を貯めておくことでいざというときの出費に備える。この心構えは、現代でも十分通用する思想と言えます。
徳川家康をはじめ、江戸幕府で最高権力を握った徳川家、及び支流の家柄は、全国の大名から多くの名刀が献上されたことで有名。一方で、初代将軍となった徳川家康にまつわる名刀は、じつは多くはありません。そんな徳川家康の愛刀のひとつとして最も著名なのが「太刀 銘 妙純傳持ソハヤノツルキ ウツスナリ」という刀です。
本刀は、小牧・長久手の戦いで徳川家康の救援を受けた織田信雄が、徳川家康へ献上したと伝えられる刀。徳川家康はこの刀を非常に気に入っており、合戦以外でも常に持ち歩いたばかりではなく、夜には枕刀(まくらがたな:護身用として枕元へ置く刀)として傍に置いていました。
没する直前の遺言でも、徳川家康は「西国の大名達が徳川家に害を成すことがないように、本刀の鋒/切先(きっさき)を西へ向けて、久能山東照宮へ安置するように」と伝えるほどの溺愛ぶり。
なぜ徳川家康が本刀をここまで愛し、信頼していたのかと言うと、本刀の作者が「三池光世」(みいけみつよ)と呼ばれる刀工だったためです。三池光世とは、平安時代に筑後国(現在の福岡県南西部)で活躍した刀工のこと。三池光世が作る刀には「魔を払う力」が宿るとされているため、徳川家康も本刀を大切にしたのだと推測されています。
徳川家康は、現在の愛知県岡崎市に生まれましたが、小国の生まれ故に幼き頃から人質生活を余儀なくされ、その経験が「何事にも辛抱して好機を待つ」という忍耐強い性格を育みました。
人質として、今川義元や織田信長などの有力大名に影響を受けて育ちましたが、この経験によって徳川家康は「武将とはどうあるべきか」、「大将とはどうあるべきか」ということを考えるようになったのです。
天下人・豊臣秀吉の前では、じっと自分の気持ちを押し殺して臣下として接した一方で、機が熟したと判断した際には、関ヶ原の戦いや大坂冬の陣・夏の陣で豊臣政権を滅亡させ、江戸幕府を開いた徳川家康。
「鳴くまで待とう」と謡われるほど、忍耐強いその性格や生き様は、現在でも「理想のリーダー像」としてビジネスマンをはじめ、多くの人びとに強い影響を与えています。
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